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1月, 2021の投稿を表示しています

「はかなく」と「はかなし」の和歌

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  <はかなくて> 「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば   花にもの思ふ春ぞ経にける」  式子内親王 「はかなくてこよい明けなばゆくとしの  思ひ出もなき春にや会はなむ」  源 実朝 <はかなしや> 「儚しやさても幾夜か行く水に  数かき侘ぶる鴛の独寝」  飛鳥井 雅経 「はかなしや枕さだめぬうたたねに  ほのかにかよふ夢のかよひ路」  式子内親王 「はかなしや夢もほどなき夏の夜の  寝覚めばかりのわすれがたみは」  俊成女 <はかなしな> 「はかなしな夢に夢見しかけらふの  それも絶えぬる中の契りは」  藤原 定家   「儚い」という同じ言葉を枕に    五人の鎌倉時代初期の歌人が    歌を詠じています    式子内親王は 定家との恋愛を    後世に噂された閨秀歌人    そして俊成女は 俊成の孫で養女    すなわち 定家の姪    また雅経は 定家と実朝の間を    取り持ち    雅経・定家ともに     後鳥羽院歌壇の 中心人物でした 新宿御苑 雨の桜

「美しい花がある」 他

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  「美しい花がある  花が美しいのではない」       小林秀雄   「不思議なことに美しいものは、  印象が薄れるどころか、私の心の中で、  ますます大きく育つかのようです」       「たいせつなのは、  ほんとうにうつくしいものを  見つけて知ることね」 「善悪は一枚の紙の裏表にすぎない。 幸福といい不幸というも」 「「老木に花の咲かんがごとし」 という形容を世阿弥はたびたび用いて、 老人になってからの芸がいかに大切か、 人生の最後に咲いた花こそ、 「まことの花」であると 繰り返し説いています」 「私が欲しいものは、 ” 語り合えるもの ” だった」 「知識や教養などは自己を磨く道具にすぎず、 極論すれば、これらを道具の一つとして、 一心不乱に自己を高めて行く以外、 人間としてはやるべき仕事はない といってもいい」 「一期一会とは、私流に解釈すれば、 結局、自分自身に出会うことである (他人の中における自分に)」 「物心一如」     上記  白洲正子 『行雲抄』 「見る処花にあらずといふ事なし。  思ふ所月にあらずといふ事なし」    芭蕉 酔芙蓉

「小夜の中山」

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  「年たけて また越ゆべしと 思ひきや  命なりけり 小夜の中山    西行 新古今和歌集 九八七 」 ここは 掛川 小夜の中山 東海道中の 難所のひとつ そして 歌枕の地 ここを越えれば 異郷の地 吾妻の国 振り返れば 四十年振りなのだ この 小夜の中山を 越すのは 鳥羽院にお仕えした 北面の武士の頃 中宮 待賢門院璋子さまの  みめ麗しきお姿 出家と 陸奥・出羽への行脚 中宮さまの 法金剛院での お隠れ 高野山での きびしき修験道 中宮さまの御子 崇徳院の    おいたわしい最期 讃岐の国 善通寺での 慰霊       思えば はるけくも    この無常の世の中を 歩んで きたものだ 毎春の 桜花を たよりとして そうして 七十路のこの歳で 東大寺の 重源殿の頼みで 大仏再建のため 東国へ    砂金勧請の旅 ああ こうして もう一度 この小夜の中山の地を 踏もうとは 変わらぬ 山並みと  はるかなる 東の国 この与えられた 余命を  尽くそう 私の命を この天地と 同化させて 残りの道を 歩むのだ 小夜の中山 夜泣石

「衣通姫(そとおりひめ)」

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 軽太子(かるのひつぎのみこ)軽大郎女 (おおいらつめ)に奸(たは)く。この 故にその太子を伊予の湯に流す。この時 に衣通王(そとおりのおおきみ)、恋慕 (しの)ひ堪(あ)へずして追い往(ゆ) くときに、歌ひて曰く 「君が行く日(け) 長くなりぬ  やまたづの  迎かへを行かむ 待つには待たじ          軽大郎女 」  第十九代允恭天皇の皇太子木梨軽皇子 (きなしかるのみこ)は容貌佳麗 (かたちきらきら)しかったが、 同母妹(いろも)で艶妙(かほよ)しの 軽大娘皇女(かるのおおいらつめの ひめみこ)と親々相奸(はらからどちたは) けたるゆえ、伊予の湯(道後温泉)に 流された。 この歌はまた、磐姫皇后(いわのひめの おおきみ)が、仁徳天皇を想って詠ったとも 言われている。 「君が行き日 長くなりぬ 山尋ね   迎えか行かむ 待ちにか待たむ           磐姫皇后 」  軽大郎女は、身体の美しさが、 衣を通して表れることから、衣通姫 と呼ばれた。 「その身の光、衣より通り出づればなり」              古事記 「その艶(にほ)へる色は、衣を徹(とほ)  りて晃(て)れり」             日本書紀 小石川植物園 ソメイヨシノ衣通姫       

「人間をつくる」

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  「人間をつくると言うこと以外のところに、  人間としての仕事はないということ」  白洲正子(一九四八年)   「たしなみについて」   人間をつくる 自らの人間をつくり 伴侶の人間をつくり  子供の人間をつくり そうして 自分の 身の回りの人間をつくる だが 我々凡人には 自分以外の  人間をつくることは 多分 不可能であろう ならば 為すことは ただひとつ 自分の人間を つくること そうなのだろう 人間は 何年もかかって  このことに気づくのだ しかも ほとんど  人生の 終わりに近づいた頃に しかし 白洲正子は  これに四十歳少し前に 気づいた これが 彼女が 六十歳以降に  大きく 花開いた その根本とも いえよう われらも これを真似び 倣い  白洲正子に 導かれて 歩もう

「鬼 女」

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  「この樹登らば      鬼女となるべし      夕紅葉     三橋 鷹女  」 夕陽は 西山に沈みかけ 深紅の紅葉は まさに  燃えんとする色 わたしの こころも からだも 夕陽と 夕紅葉に 染められて ああ 今なら なれるだろう 日常的な すべてを 捨て去り わたしの うちなる  烈しい 魂(たま)そのものに この樹に 登れば あの 戸隠山の  紅葉姫のように 鬼女に  戸隠山の鏡池

「旧大臣家の権力奪還」

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「故大納言の遺志で、桐壺更衣は後宮に入り、桐壺帝も左右の大臣家からの縛り付けに対する抵抗として、桐壺更衣を寵愛したのではないか」                 秋山 虔 桐壺の更衣と明石の入道はいとこ同士である。 明石の入道の父親が大臣で、桐壺更衣の父親が大納言。 この両家のもととなるのは故大納言の旧大臣家で、現在の左右の大臣家の以前に栄えた旧大臣家という設定である。 その旧大臣家の権力奪還の物語が、「源氏物語」の前編とも言えようか。 まず桐壺の更衣が死を賭して光源氏を産み、又いとこ同士の明石の上と交わって、明石の姫君を作って、今生帝に入内させる。 旧大臣家の権力奪還は、これにより成し遂げられたのである。   明石の中宮

「ふらここ」

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  「秋千や 桜の花を 持ちながら             小林一茶 」 ぶらんこはふらこことも呼ばれ 漢字では鞦韆とも秋千とも書くようである その起源はギリシャにあるらしく アレキサンダー大王の東征と共に 中国にも渡った 蘇東坡の詩「鞦韆院落夜沈沈」 ヨーロッパではローマを経て 十八世紀のロココ派 ワット-やフラゴナールの絵に 有名である フラゴナール 「鞦韆」

「シャイニング・プリンス」

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 「物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の    袖うちふりし心知りきや」        光源氏        藤壺の宮への和歌   光源氏は英文では Shining Prince というそうである。 Translated by Ivan Morris.   「光るの君」と呼ぶときと   「 SHINING PRINCE 」の響きの違い。   「光る」には、ただ単に光り輝く以上の  崇高な神的なニュアンスもあるが、   「 SHINING 」となると   ただ光り輝いているというイメージ    になってしまうのは、    こちらの語学力の問題なのであろうか。 源氏物語 柏木

「忘るなよ」

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  「忘るなよ 藪の中なる 梅の花              芭蕉 」    忘れ去られたかのように    藪の中で ひっそりと咲く    白梅の 密やかさ    目立たない その梅の花の    爽やかさと 薫香のごとき香り    ひとり静かに 矜持心を持って

「現世浄土」

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  「源氏物語で仏教思想はもちろんあるが、その根本思想は現世浄土ではないか。それは平安王朝の精神であった」        三島由紀夫 道長は権力とお金で、浄土を現世に持ってこようとした。 理想社会と美の極地を、現世のものとしようとした。 紫式部が権力ではなく言葉で編み出そうとした現世浄土の最高の境地が、「胡蝶」の巻あたりではないか。 三島由紀夫は、このように源氏物語を解釈していた。 道長は今の岡崎あたりに京極御堂と呼ばれる法成寺を建造、この世の浄土を創りあげた。 またその息子頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立している。 まさに浄土思想全盛の時代であった。 宇治 平等院 鳳凰堂

「君の眼に映ずるものが」

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  京都の大徳寺の 塔頭(たっちゅう)に、 大仙院という お庭で有名なお寺があります。 そこの玄関には、 こんな言葉が書いてありました。 「今日を一生懸命生きずして、 いつを生きるのか」 アンドレ・ジイドは 次のような言葉を残しています。 「君の眼に映ずるものが、 刻々と新たならんことを」 二つともに、僕の好きな言葉です。 大徳寺 大仙院 書院前庭

「平家物語 - 重衡と千手の前」

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 平重衡は南都襲撃により、東大寺の大五重塔や大仏殿、また興福寺の伽藍を焼き払った不埒な猛将というイメージしかなかった。 ところが実際は、清盛と仁位の尼時子の五男として、明るくユーモアもあり、気の利いた貴公子であったらしい。 「平家花揃」では、牡丹の花に例えられる豪華で美しい男と表現されている。 その重衡が捕らえられ、鎌倉に送られれて、そこで出遭った千手の前の情愛の篭った慰め。  「一樹の蔭、一河の流れも他生の縁」  と千手が詠えば、  興に乗った重衡も琵琶を弾じる。  千手が琴を合わせると  峯の松風も調べを添えるようであった。 重衡が南都の僧兵により、惨殺されたその時を同じうして、千手の前も自害し果てたという。 または、善光寺で重衡の菩提を弔ったとも。 いずれにしても、かくも美しい恋物語を作り上げているのは、源平合戦においては義経を除いては全て平家の貴公子達なのである。 そこには最初に天下を取ったにもかかわらず全て王朝貴族化してしまった平家と、あくまで鎌倉の地にとどまって、一所懸命の武士を貫いた源氏の大きな差が出ている。 東大寺 大仏殿

「君に恋ひ」

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  「君に恋ひ 甚(いた)もすべなみ 奈良山の  小松が下に 立ち嘆くかも               笠 郎女 」    お慕いする 貴方さまは    いまだ 越中の国府におられます    はるかな路を     貴方さまにお逢いするため    往来いたしましてより 早幾年    貴方さまを偲ぶよすがとして    わたくしにできるのは    奈良山より 貴方さまのご自宅のある    佐保の里を 遠望するのみ    小松が下に佇んで    ただただ 露に心を濡らすことのみ 明日香の里

「石庭の作者」

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  「作庭は最初は荒び (すさび) であった、と私は考えている。慰み、遊び、と解釈してもらってもよい。古い作庭書を読むと荒びを感じさせる個所がかなりある。この荒びを美意識として昇華させ表象させたのが禅寺の庭である。」         立原正秋 『日本の庭』 京都の龍安寺の石庭の作者については、諸説があるようである。 開山の義玄天承、寺を建立した細川勝元、絵師であり義政の同胞衆であった相阿彌、勝元の実子細川政元、西芳寺の住職子建西堂、それに茶人の金森宗和などである。 但し、この庭の左から二つ目の石組みの裏側に、「小太郎、彦二郎」という名が刻まれている。 この庭師は 1490 年頃に存在したことが記録として残っており、そこから類推すれば時代的には細川政元が庭を着想し、小太郎・彦二郎に造築させたという説が成り立つようである。 政元は奇行の多い人間で、かつ倹約家でもあったという。 応仁の乱後の財政逼迫の下で、石と砂のみの庭を考えたこともあり得ることではある。 高さ一・八メートルの油土塀は屋根が異様に大きく、右手奥の西側の壁が南へ行くに従って徐々に低くなる、遠近法を用いている。 油土塀は土を大釜でよく煮て、その土に塩の苦汁(ニガリ)を混ぜて叩いた、非常に堅固な壁である。 大きな柿葺きの屋根と土塀の灰色と肌色の混じった色調、それに白砂と石がまた灰色と肌色の混色であり、それらが全て照応して背景の木々の緑と見事な色調の調和した景観を造り上げている。 灰色は寂しさを、肌色は暖かさを表し、それが土塀の灰色の抽象的とも言える模様と相まって、幽玄さを醸し出している。 方丈裏に水戸光圀寄進の、「吾唯知足」の龍安寺形手水鉢の複製がある。 知足は老子の言葉であるという。 龍安寺 石庭  

「紫式部新孝」

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  めぐりあひて見しやそれともわかぬまに   雲隠れにし 夜半 ( よは ) の月か げ 紫式部 (新古 1499 )   「更に驚かれることは彼女の思想の超凡なること、直覚の鋭くて正しいこと、同情の遍(あまね)くして繊細に且つ深きこと、僻(ひが)んだり意地悪く考えたりすることのないこと、恋愛を幾様にも書き分けて、いずれにも人情の真実を描き、無稽と空疎との跡のないこと、人間性の内部に徹して観察しながら、其れを客観的に肉付けて描写する筆力の精確なること、想像力も旺盛であったが記憶力も勝れて居たことなど、一々に云えば際限がない」(「紫式部新孝」 与謝野晶子) 「昌子は式部を賛美する点で、安藤為章の「紫家七論」(元禄十六年・ 1703 年)さえまだ云い足りないといっている。音楽論、絵画論、歌論に見識あり、漢字仏典、有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、美術、工芸、四季の風景について、高雅なる趣味と見識を備えていた式部であるが、そういう教養をいかにして得たかということにつき、晶子は式部の天才をまず挙げ、更に父や兄、伯父といった学者芸術家からの「美しい感化」があったろうといっている」(「源氏紙風船」田辺聖子) 清水好子は、「紫式部」という好著の中で少女時代の女友達との交流を述べ、「同時代の女流には類を見ないもの」で、女友達と交わした歌の為に「式部は女学生のように爽やかで、時には少年ぽく見える」と記している。 学者の家に生まれ、母なし子として育ち、兄と共に漢籍の素養を学んだ少女時代、また同時代の女友達との歌による交流、父親の失業、青春時代の胸に刻まれた悲恋、そうして男らしく教養もあり、男女の道に長けていた宣孝との結婚と、女としての悦びを深く植え付けられた短い結婚生活、娘賢子の誕生、それから道長の誘いによる中宮彰子への宮仕え、道長との媾合。 それらの紫式部に起こった出来事一つ一つの中から、式部は様々な知識、情報等の滋養を吸収し、それらを文学的もしくは美学的に咀嚼して自分のものと為し、それを「源氏物語」という世界に誇り得る日本文学として、編み出し紡ぎ出していったのであろう。 紫式部

「紫のひともとゆゑに」

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  「紫の ひともとゆゑに むさし野の  草はみながら あはれとぞみる」          伊勢物語 41段 この広い 武蔵野の 小川の傍で 出遭ったお前 紫の瞳が 朝の日を浴びて 私を見て 輝いていた そうして その夜 私は お前の その紫の瞳が 闇の中で 煌くのを 初めて見た   今も こうして草を食めば お前の 紫の瞳への   いとおしさが 甦ってくる 紫草

「桜の和歌」

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桜の和歌で、好きな歌は下記の通りです。 世の中に たへて桜の なかりせば  春のこころは のどけからまし                  在原業平 花の色は うつりにけりな いたずらに    我が身世にふる ながめせしまに              小野小町 さくら花 散りぬる風の なごりには    水なき空に 波ぞ立ちける                    紀 貫之 さくら花 にほふともなく 春来れば    などか嘆きの 茂りのみ増す                   伊 勢 花に染む こころのいかで 残りけむ    捨て果ててきと おもふ我が身に                西 行 春の夜の 夢の浮橋 とだえして    峰にわかるる 横雲の空                       藤原定家 花をのみ 待つらむ人に やまざとの    雪間の草の 春を見せばや                   藤原家隆 風さそふ 寝覚めの袖の 花の香に    薫る枕の 春の夜の夢                      俊成女   秩父 清雲寺

「雪はげし」

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  「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」            橋本 多佳子 雪はしんしんと あの方への想いのように 降り積もり 今宵 白い足跡を造りつつ 古き寺に至れば 軒端の下で あの方に、、、 白い息のあとさへ 消えて 時すらも 止まって 雪の清水寺

「 秋 二 題 」

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「行く秋や 手をひろげたる 栗のいが」 「この道や 行く人なしに 秋の暮」                芭 蕉 この二つの俳句を、芭蕉作と知らずに読んだとき、 これらの句を、私たちは名句と 思うであろうか。 誰でもが作れそうな句である。 しかし実際に作ることは難しい。 そして、句の中身は 「無内容」とも言うべきものである。  我が敬愛する白洲正子は、 「日本の和歌の本質は、 無内容である」と言ったという。 嵯峨野 常寂光寺  

「紅 旗 征 戎」

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  「紅旗征戎 吾事にあらず」        藤原 定家 「明月記」 定家は、まさに激動の時代を生きた 後鳥羽上皇を中心とした    王朝時代最後の 華やかな 歌合と宴 新古今和歌集のための 千五百番歌合せ 水無瀬離宮での 恋十五首歌合せ そうして 承久の変 後鳥羽上皇の 隠岐遠島(おんとう) 政争や戦さは 吾事にあらずとした その定家も また 大きな時代の 荒波のうねりに   翻弄された その残り香こそ 百人一首 二尊院 時雨亭跡

「萩こぼる」

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 「いにしへの 女人の歎き 萩こぼる」              伊藤 敬子 いにしへ 世は平安王朝から 鎌倉幕府へ 壇ノ浦に入水して果てた 資盛を偲んで 数々の歌を詠じた日々 建礼門院を訪れた寂光院の その庭に はらはらと 涙のように散る 萩 「なべて世のはかなきことをかなしとは         かかる夢見ぬ人やいひけむ」       建礼門院右京太夫         (家集 223 )

「IF THE STAR 」

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  「 If the star should appear one night   in thousand years   how would men believe and adore   and preserve for many generations   the remembrance of the city of God. 」              Ralf Emerson かの英国のロマン派詩人 バイロンが歌ったように 地上の青暗き王冠である美しい星空 これが何千年に一度しか見れないものであれば 人類はあれこそが神の国の現われなんだと その星空への憬れと信仰を 何世代にも亘って語り続けたことだろう エマーソンはそのように言う この文章の美しさと崇高さ そうして天空をも含めた 大自然の美しさと崇高さ そして我々人間存在もまた その一部であり得ること

「あくがるる 心はさても」

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  「敷島の やまと心を 人問はば      朝日に匂ふ 山桜花               本居宣長」 これは「花は桜 人は武士」の言葉と、桜の落花と戦争での散華を重ね合わせたイメージで、潔く散る武士(もののふ)のやまと魂を表現した歌のように、解釈されてきました。 でも実際はもっと素直に、日本人の心のありかを表わしたものなのでしょうね。 「あくがるる 心はさても 山ざくら    ちりなんのちや 身にかへるべき         西行[新後撰 91 ]」 山桜の歌は、何といっても西行が一番だと思います。 市ヶ谷 新見附橋

「あはれ うるわしの」

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  「あはれ  美わしの青春も  過ぎ行けば  楽しめよ  われ、明日知らぬ  命なれば」  ロレンツォ・デ・メディチ フィレンツェで栄華を誇った かのメディチ家のロレンツォですら このように歌いました 人生を愉しむ術を覚えることこそが 人生で一番大切なことのようです 花の聖母大聖堂 フィレンツェ

「さまざまの こと思い出す」

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  「さまざまのこと思い出す桜かな               芭蕉」 人生の中には、色々な桜の 想い出があります。 たとえ喜ばしい想い出でも、   桜に絡んだ思い出はそこはかとなく   儚さに彩られているような気もします。 愛の無常とも落花流水とも つながるような儚さ。 それは短い時季のみ咲き乱れ、   やがてすぐに散ってしまう桜の イメージが、   その思い出の背景に   横たわっているからでありましょうか。 喜びにつけ、悲しみにつけ、   さまざまの 桜を思い出すこと。 小石川後楽園の池

「願わくは」

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  願はくは、  この真に貴族的なものよ、  たった一人で行け、  私達地上のものには目もくれず、  天を仰いで一人で行け、  落日のようにおごそかに  落花のようにうつくしく              白洲正子 「散ればこそ」 真に貴族的なものとは  世阿弥の能  利休の侘茶  芭蕉の俳句 等 本当に貴いものは いつも孤独なのだ それは 大衆を離れて 孤高なのだ 天を目指すが故に そうして 独りであるが故に おごそかであり うつくしいのだ  「草野」 古澤万千子

「花は華となる」

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  「花は華となる 一秒間のまなざし    広嶋 美恵子 」  やっとお逢い出来た    あのお方  でも 今は   仕方なく他人の顔  言葉も交わさずに  ただ  あのお方の眼差しが  熱射線のように 私の全てに  注ぎかけられる 私は 熱く 燃える   華  

「万葉集の歴代歌人」

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  「人麻呂の歌は、 羈 旅と挽歌をその内容とするものが多い。人麻呂の悲調は、挽歌はもちろん、 羈 旅の歌においても鎮魂のふかい声をなしていることから来ており、そこに人麻呂の古代性を読み取ることは容易であろう。この伝記不明の宮廷歌人は、また巡遊歌人の面影をも合わせ持ち、彼において、芸術は呪術の伝統と固く結びついていたことが思われるのである。」    上田三四二 「私の古典鑑賞」 柿本人麻呂 = 呪言の続きのような         重々しい歌 高市黒人  = 繊細な詩心による         風景の客観化 山辺赤人  = 自然鑑賞による         叙景歌 山上憶良  = 知識人として         社会を見る目の新しさ 万葉棹尾の歌人 大伴家持  = ほとんど近代の憂愁         に通うような細みの抒情 高松塚古墳 壁画

「傍目の美しさ」

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 「躾とは身を美しくあれと書く、服飾のことではない。また型通りの礼儀作法でもない。要は、傍目を大切にせよ、との教えである。立居振舞いが恭謙で、言う事為す事がつつしみ深く、思いやりがあって傍に迷惑を及ぼさなければいい。人が、傍目の美しさを心掛ければ、人の世は美しくなる。理非の問題ではない。」      「平家」池宮彰一郎 ( 日経新聞 )  いい文章ですね。この文を読むと、傍目の美しさとは見た目の美しさではなくて、「心の持ち方の美しさ」なんだということが判ります。僕の好きな白洲正子は「理解することは簡単なことである。大切なことは判ると言うことではなく、それが身についているかどうかと言うことである」と言っていて、最近この言葉を心の中で反芻しています。  「判っているけど、実際にはできないこと、もしくは身についていないこと」は、自分を省みても山ほどあります。 大徳寺 龍源院 一枝担

「たましいとして」

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  「私たちの思う芭蕉や利休や西行は、個人と言うよりももっとはっきりした、もっと大きな存在、ひとつのかたまりと化しています。それは、かって生きていたそれらの人々を、人間としてよりも、たましいとして見ているからです。」  白州正子 「たしなみについて」          ( 1948 年) 白州正子は、この三人の生き方の中では、 特に西行の生き方に、 深い感銘を受けている。 この三人にもそれぞれの人生があり、 そして個性があった。 しかしこうした偉大な存在は、 その死とともに、 一つのたましいになってしまう。 その生き方が、 そして人生で求めたものが、 三者三様でありながら、 非常に近いものになっている。 それは、 西行においては「歌は真言」であり、 利休においては「和敬静寂」であり、 芭蕉においては「不易流行」であった。 そして彼らの生き方が、 一つの塊となって、 たましいと化したのである。 世俗を超えて、 真に変わらぬ 人間にとって  大切なもの 美しいもの  のみを 三者ともに、生涯かけて 追い求めたのである。 秩父 清雲寺

「祇園月夜」

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  「あでやかに 君がつかへる 扇より   祇園月夜と なりにけらしな            吉井 勇 」 鴨川踊りを見た後 先斗町の 狭い路地を  二人は歩いた 歩きながら 貴女は 小さな 茶席用の  可愛い扇を 舞妓の使ったように  くるりと 閃かせた 四条橋の たもとから  河原に降りた 祇園さんの  八坂神社のあるほうの 東山に  十六夜の月が  懸かっていた 祇園 新橋

「春ごとに 花のさかりは」

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  「春ごとに 花のさかりは ありなめど  あひ見むことは いのちなりけり       詠人不知(古今集) 」   くり返し くり返し    春の訪れるたびに 桜の花は    命とばかりに 美しい花を咲かせる   あおによしの寧良(なら)   と詠われた天平の御代も    平安から鎌倉にかけての   動乱の中に咲いた新古今の御代も   そうして我らの生きる今も   また今から一千年後にも   この地上が生きとし生けるものを育み   夜空の群青色の王冠たる星空を戴くかぎり   桜はその命たる華麗な花を   咲かせつづけるだろう   われらモータル(死すべき)な   存在にとっては   この永遠に常永久(とことわ)に   咲きつづける桜花を   愛(め)でることが   自らの命を よりよく感じるときなのだ   桜花という自然の命と   己が命を    ひとつに 重ねつつ 京都 原谷苑

「この世をば」

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  この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば                   藤原 道長 藤原不比等の子・房前に始まる北家藤原氏の全盛時代は、何と言っても藤原道長の時代であった。  道長はその娘四人を天皇に嫁がせて、外祖父という絆の強い婚姻関係でその権力を集中させ、強大なものとしていった。  即位順で見れば、まず円融天皇の皇子・一条天皇には長保元年(九九九年)その二十歳の折りに、十二歳の自らの長女彰子(あきこ)を女御として嫁がせている。  しかし一条天皇には道長の兄道隆の長女である中宮定子(さだこ)がすでに正暦元年(九九〇年)に嫁いでいた。  十一歳で元服した一条天皇に、添臥の女御として十五歳の定子が入内していたのである。  そして翌年には「中宮定子を皇后、女御彰子を中宮とする」という勅が出されている。  しかし道隆が病死した後、その子伊周(これちか)は道長との政争に破れ、定子は出家していた。  にもかかわらず一条天皇は尼となった定子を手離さず、定子は彰子入内のその年に、敦康(あつやす)親王を出産している。  そして定子はすぐに再び妊娠し、翌年産褥死してしまう。  この定子に仕えていたのが、清少納言であり、彰子に仕えていたのが、紫式部や和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などである。      そして紫式部が「源氏物語」を書いた時期は、彰子が入内してからやっと十年後に皇子(後の後一条天皇)を産んだ、長徳元年(九九五年)から寛弘元年(一〇〇四年)の十年間であるという。 吉野山 一目千本桜

「立原道造の月」

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  「美しいものになら ほほえむがよい  涙よ いつまでも かわかずにあれ  陽は 大きな景色の あちらに沈みゆき  あのものがなしい 月が燃え立った …  」        立原道造 「溢れひたす闇に」 日本人のような それでいて西洋人のような 立原道造 彼の詩は  古今集とリルケのあわいの中にある と芳賀徹は「詩歌の森へ」の中で 言っています か弱く 美しく 甘く 物悲しい 月