「紫式部新孝」
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに
雲隠れにし夜半の月かげ
紫式部 (新古1499)
「更に驚かれることは彼女の思想の超凡なること、直覚の鋭くて正しいこと、同情の遍(あまね)くして繊細に且つ深きこと、僻(ひが)んだり意地悪く考えたりすることのないこと、恋愛を幾様にも書き分けて、いずれにも人情の真実を描き、無稽と空疎との跡のないこと、人間性の内部に徹して観察しながら、其れを客観的に肉付けて描写する筆力の精確なること、想像力も旺盛であったが記憶力も勝れて居たことなど、一々に云えば際限がない」(「紫式部新孝」 与謝野晶子)
「昌子は式部を賛美する点で、安藤為章の「紫家七論」(元禄十六年・1703年)さえまだ云い足りないといっている。音楽論、絵画論、歌論に見識あり、漢字仏典、有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、美術、工芸、四季の風景について、高雅なる趣味と見識を備えていた式部であるが、そういう教養をいかにして得たかということにつき、晶子は式部の天才をまず挙げ、更に父や兄、伯父といった学者芸術家からの「美しい感化」があったろうといっている」(「源氏紙風船」田辺聖子)
清水好子は、「紫式部」という好著の中で少女時代の女友達との交流を述べ、「同時代の女流には類を見ないもの」で、女友達と交わした歌の為に「式部は女学生のように爽やかで、時には少年ぽく見える」と記している。
学者の家に生まれ、母なし子として育ち、兄と共に漢籍の素養を学んだ少女時代、また同時代の女友達との歌による交流、父親の失業、青春時代の胸に刻まれた悲恋、そうして男らしく教養もあり、男女の道に長けていた宣孝との結婚と、女としての悦びを深く植え付けられた短い結婚生活、娘賢子の誕生、それから道長の誘いによる中宮彰子への宮仕え、道長との媾合。
それらの紫式部に起こった出来事一つ一つの中から、式部は様々な知識、情報等の滋養を吸収し、それらを文学的もしくは美学的に咀嚼して自分のものと為し、それを「源氏物語」という世界に誇り得る日本文学として、編み出し紡ぎ出していったのであろう。
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