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3月 5, 2021の投稿を表示しています

「星の王子さまと赤いバラ」

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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中で、印象的な文章は、下記の通りです。 If someone loves a flower of which just one single blossom grows in all the millions and millions of stars it is enough to make him happy just look at the stars. Wenn einer eine Blume liebt die es nur ein einziges Mal gibt auf allen Millionen und Millionen Sternen dann genuegt es ihm voellig dass er zu ihnen hinaufschaut um gluecklich zu sein. Si quelqu'un aime une fleur qui n'existe qu'a un exemplaire dans les millions et les millions d'etoiles ca suffit pour qu'il soit heureux quand il les regarde. 『だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。』   サンテックスのフル・ネームは、 アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ (Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry)だそうです。 リヨンの伯爵家に生まれました。経歴はご存じの通りですが、『星の王子さま』に出てくる赤いバラは、妻コンスエロのことではないかと言われているようです。 またサンテックスは、偵察飛行中にマルセイユ沖でドイツ空軍に撃墜されたようですが、搭乗していた ロッキード F-5B( P-38 の偵察型)、搭乗していたで米国製でした。そしてP-38 ライトニングは、ブーゲンビルで山本五十六長官の飛行機を撃墜したことで有名でもありました。  

「雪月花の時」

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  「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天(白居易) THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES.   原詩は下記の通りです。   寄殷協律 五歳優游同過日 一朝消散似浮雲  琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君   幾度聽鷄歌白日 亦曾騎馬詠紅裙  呉娘暮雨蕭蕭曲 自別江南更不聞 殷協律(いんきょうりつ)に寄す            五歳の優游 同(とも)に日を過ごし 一朝消散して浮雲に似たり 琴詩酒の伴(とも)皆我を抛(なげう)ち 雪月花の時 最も君を憶(おも)ふ 幾度(いくたび)か鶏を聴き白日を歌ひ 亦た曾て馬に騎(の) 紅裙(こうくん)を詠ず 呉娘(ごじょう)の暮雨(ぼう) 蕭蕭(しょうしょう)の曲 江南に別れてより更に聞かず 五年の間、君と過ごした楽しい日々は、ある朝、浮雲のように消え去ってしまった。 琴・詩・酒を楽しんだ仲間は、皆私の前からいなくなり、 雪・月・花の時期には、君をひたすら思い出す。 何回「黄鶏」の歌を聴き、「白日」の曲を歌ったろう。 馬にまたがり、紅衣を着た美人を詠じたこともあった。 呉娘の「暮雨蕭々」の曲は、江南で君と別れてから、一度も聞いていない。 ※殷協律:白楽天が杭州、蘇州刺史だった時の属官。   ○大和二年(828)、一時洛陽に赴いた時の作。 ○詩を寄せた殷協律は、杭州・蘇州での属官にして遊び仲間。 ○ここでは特に江南での遊びを懐かしんでいる。   この詩句がもととなり、「雪月花」は四季の代表的風物をあらわす日本語として定着した。 いくとせの いく万代か 君が代に  雪月花の ともを待ちけん (式子内親王『正治初度百首』) 白妙の 色はひとつに 身にしめど  雪月花の をりふしは見つ (藤原定家『拾遺愚草員外』)

「若狭なる」

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若狭なる三方の海の浜きよみ  いゆきかへらひ見れどあかぬかも (若狭の三方湖の浜は清らかなので、  行きも帰りも見るが見飽きることはない)     詠み人知らず       『万葉集』 巻七 一一七七 常神半島の由来は神功皇后を祀る常神社によるものと言われ、半島の先にある御神島には神が宿っていて、様々な厄災から人々を守ったという。『古事記』には、神功皇后が熊襲征伐に向かう時、角鹿(敦賀)を出て淳田門(ぬたのと)で食事をしたとき、鯛が沢山寄ってきて、神功皇后がお酒を与えると鯛がまどろんで皆浮かんできたという。それ以来、常神半島辺りでは五月になると鯛がよく釣れるという「まどろみ鯛伝説」があるという。神功皇后は息長一族に属しており、古代には近江国坂田郡を根拠地にして、若狭や敦賀一帯を治めていたという。 以下は私見であるが、神功皇后の神から由来しているという説明も肯けるが、表日本であった若狭一帯は朝鮮半島からの入り口でもあり、常神や神子という名前についている神は、韓の国からの渡来人を神として受け入れたという背景もあったのではなかろうか。   常神半島