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3月, 2021の投稿を表示しています

「真の贅沢」

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  「真の贅沢というものは、ただひとつしかない。それは人間関係の贅沢だ。」  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 『人間の土地』 人の人生は 人間関係で成り立っていると言ってもよい そして家族や友人が特に重要であるが その人が人間関係に恵まれているか どうかでその人の人生の質的レベルが 決まることとなる 贅沢な人間関係を持ちたいものであるが それはその人の人格の錬磨と 交友の在り方次第となるのであろう パリ・アレクサンドル三世橋

「カキクケコとサシスセソ」

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「人生のカキクケコ」 感動・興味・工夫・健康・恋。 「サシスセソの自己管理」 散歩・自愛・睡眠・節制・爽快。 コロナ時代のシニア世代には シの入っている 「サシスセソの自己管理」が 似合うようである  

「川端康成 美と伝統」

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 「川端は異性を情熱のバロックとしてとらえることによって、彼自身の文学を確立した。その記念碑が『雪国』である。川端が求めていたのは美しい肉体をいっそう美しいものにする生命のはげしさであった。」 「結婚も家も社会もまぼろしであり迷いである。生命のほむらのままに女は愛する男にすべてを与えてしまうがいい。そこに女であることの美しさとかなしさと切なさがある。」     吉村 貞司  『川端康成・美と伝統』 愛に情熱といのちを燃やす女の 美しさと切なさを描いた 『雪国』の駒子と葉子 人生の叙情と官能のロマネスク 『美しさと哀しみと』の音子とけい子 この四人いずれもが 一人の女の分身である 愛に命のほむらを燃やし その激しさ切なさゆえに 美しさが際立つのだ

「寧静致遠」

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  「寧静致遠」 心安らかで落ち着いていなければ、 深い真理に達することは出来ない。   三国時代の蜀の宰相・諸葛亮孔明の 息子への遺言の一節だそうです。 浦安・中央公園の桜

「伎芸天」

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諸々のみ佛のなかの伎芸天   何のえにしぞ我を見たまふ         川田 順 数多のみ佛の中で 伎芸天は極めて少ない 有名なのは 秋篠寺の伎芸天である 数多くの文人たちが この夢見心地で 法悦に浸っているみ佛と その肢体の醸し出す 浄化された楽の音に  感動して 短歌や俳句を 捧げている 六三歳の川田が 何のえにしか 三十代後半の 大学教授夫人俊子と出会った 老いらくの恋は 川田が六八歳の時に実を結ぶ 川田にとって 俊子は伎芸天であった 伎芸天

「夜這星」

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  「星はすばる ひこ星 ゆふづつ よばひ星 すこしをかし」            清少納言 「枕草子 」 星と言えば平安時代よりすばる 昴は統(す)ばるに由来し プレアデス星団をさすという 次いでひこ星は彦星 七夕の伝説の牽牛星であり わし座の一等星・アルタイル ゆふづつ(夕星)は金星 宵の明星であり 長庚という 蕪村は 長庚 とも号した よばひ星は夜這星と書き 流星のこと 夏山の金銀砂子の星空に 横たわる銀漢 その銀漢をよぎるほうき星ほど 「おかし」いものはない

『陰翳礼讃』

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  「暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの祖先は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがて美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実日本の座敷の美は、まったく陰翳の濃淡によって生まれているので、それ以外に何もない。」           谷崎 潤一郎  『陰翳礼讃』 うす暗い畳の日本間に 障子を通して 陽光が射し込んでくる光景に こころやすまる思いをし 射干玉の暗闇に 蝋燭の弱い光に照らされた 金屏風に美を感じるのが 大和心の美意識ではなかろうか

「言葉というものは」

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  「言葉というものは電光のように通じるもので、それは聞くほうがその言葉を待っているからである」               山本夏彦 言葉は不思議なものである。 受け取る方にその言葉を 待ち受けている心がなければ 如何に良い言葉でも 受け取る相手には通じない しかし受け取る相手が その言葉を待ち受けていれば それは電光のように相手の心に 響き渡り 感動を引き起こす 良い言葉にすぐに反応できるように 日頃から心を磨いて居たいものである 伊吹山

『モツァルトと西行」

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  「モツァルトの光は、バッハのように崇高な、つまり天からだけ落ちてくる光ではない。またベートーベンのように、人間の苦悩する魂から滲みでる神秘的な光でもない。嬰児の笑い声のような明るさ、一種の天と地との間の薄明のような光線が、どこからともなくかれの作曲した音符の一つ一つに射している。 .....  つまり私たちの生まれなかった昔にでも聞いたような、天使の歌の遠いかすかな記憶が蘇るような具合に、モツァルトは歌いかけるのである。」       福永 武彦          『藝術の慰め』 「モツァルト頌」 「西行の和歌を貫くふしぎに透明な気分は、この地上一寸の浄福感からきている。」        上田 三四二         『この世 この生 - 西行 良寛 明恵 道元』 モツァルトが没したのは1791年で、西行が亡くなったのは1190年のその如月の望月の頃である。両者はそれぞれ音楽家と歌人の僧侶であり、その生きた時代も600年の開きがある。しかしその音楽作品と和歌の作品には、天使の歌とでもいえるような共通性がある。俗世間から抜け切れてはいないが、地上一寸浮き出た位置にあって、純粋性と浄福感を併せ持った作品が多いと感じる。 オランダ キューケンホフ公園

「心あかるければ」

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  「心あかるければ、世明るし。心深けれは、世深し」         「安岡正篤(まさひろ)一日一言」から 世の中のことも、自分自身のことも 全ては心の持ちよう次第 苦しみと喜びも 受け取り様次第 苦しみは 災難と受け取るか 試練と受け取るか 喜びは 自分の力と思うか 人様のお蔭と思うか わかっていても 自分の心を制御するのは 簡単ではない 鍋島松濤公園

「花筐」

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花がたみ 目ならぶ人の あまたあれば    忘られぬらむ 数ならなくに         詠人不知  花かごのなかに 並んでいる花のように あなたさまには 沢山の女人がおいででしょうから ものの数に入らないわたしなど もうお忘れでございましょう *   花筐は 男大迹王(継体天皇) を慕って  形見の花筐をもって都へと  狂い出た 照日の前 がシテの狂女物の 能 。  世阿弥作。 上村松園 「花筐」 花かごの中にいろいろと花があるのを選ぶように、選べる相手がたくさんいるので、忘れられてしまったのでしょう、物の数にも入らない私は 、   花がたみ  目ならぶ人の  あまたあれば  忘られぬらむ  数ならぬ身は

「幸せと喜び」

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 幸せになるには必ず何かがなくてはいけなくて、それがあるから幸せなのだ。つまり外界に依存した感情なのだ。  喜びには、そんなものはいらない。眼に見える理由が何一つなくても、私達を包みまるで太陽みたいに自分自身の核を燃やしながら燃え続ける。    「心のおもむくままに」 スザンナ・タマーロ著 『幸せ』=ある人たちといること      あるものを手にしたこと      ある環境にいること   対象もしくは 環境と言う外部的なものにより生ずるもの   受動的幸福感・時限性   『喜び』=ある人たちを愛していること      ある心の状態にいること   精神的もしくは心に関わる内部的なものに   より生じるもの   能動的幸福感・永続性 人間はいつも自分の人生の中にあって、自分ですべてを決定することは出来ない。しかし少なくとも自分で決定できる範囲での自分の生き方は、 自分が主人公となって決定してゆきたい。 そして自分の人生の中で、出来うる限り大きな「喜怒哀楽」を味わっておきたい。自分が選んだ生き方の中で、他者との心の通うかかわりを持って、しっかりと 「喜怒哀楽」を味わうこと。このことが「生きている実感」であり、「生命の燃焼」に繋がるのではなかろうか。 ジヴェルニーのモネの邸宅

「キリストに倣いて」

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「自分に打ち克ち、日毎より強くなり、いくらでも特に進むことが出来ることが、私共の務めでなければならない。」 「すべての言葉や本能を軽々しく信ずるな。むしろ慎重に、気長に、神のみ旨に従って、事をはからねばならない。」 「自分を、自分以上のものに見せようとするな。」     トーマス・ア・ケンピス  『キリストに倣いて』 この本は、広島のN町教会のH神父さんより 二十歳の誕生日に頂いたものである。 時々好きなところを開けて、拾い読みをしてきた。 トーマスはドイツのケルン近郊のケンペン生まれで、 生年1379年、没年1471年である。  ア・ケンピスとは、ケンペン出身のという意味である。 ヴィンチ村のダ・ヴィンチと同じである。 『キリストに倣いて』(『イミタチオ・クリスティ』)は 黙想と祈りを通して神にいたる道を説く著作である。 トーマス・ア・ケンピス

「春の坂」

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春の坂のぼりて恋の願かけに      黛まどか 『京都の恋』 春の産寧坂を ひたすらに清水さんへと のぼる乙女 やっと本堂へ着き 本尊の十一面観世音に 手を合わす どうぞかなえておくれやす 思い人を目に浮かべ 音羽の山に願かける 舞台に出れば花盛り 京洛の町 一望に  

「ボストン美術館」

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『我々は何処から来たのか、  我々は何者か、   我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年    ボストン美術館の中では、ゴーギャンのタヒチでの絵画である『 D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ? 』が特に印象深い。横に長い大きな絵画であり、タヒチの風景の中にタヒチの女たちが大勢描かれていて、右端の幼児から左端の老婆まで、人の一生が描かれている。絵画の題名の方も、また長くて哲学的な名前であり、これを見た人は一生忘れないであろう絵画であると言える。  それ以外に衝撃を受けたのは、浮世絵のコレクションの多さであった。日本美術に造詣が深いアーネスト・フェロノサがボストン美術館の日本部(後に東洋部)の初代部長となったのは、日本政府の依頼を受けて、日本の美術品や秘仏を再発掘して帰国した後のことであった。奈良では、岡倉天心を従えて、法隆寺の秘仏・夢殿観音や聖林寺の秘仏・十一面観音菩薩の禁を解かせて、調査をしたことはよく知られている。フェノロサは廃れようとしていた日本美術や仏像を、再評価して保存を促してくれた日本文化保存の恩人であると言える。岡倉天心も後に同美術館の東洋部長となっている。

「吉田秀和のモーツァルト観」

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  吉田秀和はモーツァルトについてどのように書いているだろうか。まずハイドンとの比較である。 「モーツァルトは、あの偉大で率直で明快なハイドンの芸術に、たった一つ欠けていた何かを音楽に表現した。旋律ひとつとっても、表現の微妙な味わいが無限に豊かになっているし、和声でも半音階的歩みがはるかに柔軟な明暗を刻み付けている。その上に、彼の表現の無類の変化をともなっていながら最終的な形式感の的確さ、清澄さなどを考えあわせると、これは要するに、音楽的感性の違いというものをこえている。ハイドンは、その快活さと誠実との天才で、一八世紀をはるかにぬいて、一九世紀をとびこえて現代につながるが、モーツァルトは、おそらく、いかなる世紀にあっても、音の芸術が革命的に変化しない限り、感性と精神の自由の芸術的完成の象徴としてのこるのかもしれない。」 継いで、ピアノ協奏曲第二一番に関しての短いコメントは下記の通りである。 「そこでもう一つ、純粋に音楽の喜びに満ちた第二一番ハ長調 K 四六七をつけくわえたい。これは簡単直截でありながら、実に素晴らしい音楽に富んでいる。第二楽章のあの静かな叙情など、絶品である。」 モーツァルトは和歌における藤原定家であり 俳句における芭蕉であり 世代と歴史を超えて 生き残る音楽家であると 吉田秀和は言っている。 彫刻においてはロダンが それに近いかもしれないが 絵画においては 具象画と抽象画があって 独りを指定するのは困難である 具象であれば レオナルド・ダ・ヴィンチ 辺りであろうか

「映画 ELVIRA MADIGAN(短くも美しく燃え)」

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モーツァルトのピアノ協奏曲第二一番についてのアインシュタインの言葉。 “The whole concerto is one of the most beautiful examples of Mozart’s iridescent harmony and the breath of domain embraced in his conception of the key of C major.  -----When one listens to such a work, one understands why Mozart wrote no symphonies in the earlier Vienna years, for these concertos are symphonic in the highest sense, and Mozart did not need to turn to the field of the pure symphony until that of the concerto was closed to him.” 「協奏曲全体は、モーツァルトの玉虫色のハーモニーの最も美しい例のひとつであり、ハ長調の鍵の概念に包含された領域の息吹です。 ----- このような作品を聴くと、モーツァルトが初期のウィーン時代に交響曲を書かなかった理由がわかります。なぜなら、これらの協奏曲は最高の意味で交響曲であり、モーツァルトは純粋な交響曲の分野に目を向ける必要がなかったからです。 そのような協奏曲が彼によって閉じられてしまうまで。」   この協奏曲は、モーツァルトがウィーンに滞在していた一七八五年に作曲された第二〇番、第二一番、第二二番の二番目に作曲された。モーツァルトはその時二九歳であり、モーツァルト自身によりウィーンのブルク劇場で一七八五年三月一〇日に初演されている。 諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』によれば、「映画 ELVIRA MADIGAN (短くも美しく燃え)」でバックグラウンド・ミュージックに用いられたアンダンテ(第二楽章)が広く知られており、その美しさには筆舌を尽くし難い、最良のモーツァルトの高雅なまでに洗練されたリリシズムが感じられる」と著わしている。 「短くも美しく燃え」

「沖の石の讃岐」

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  わが袖は塩干に見えぬ沖の石の        人こそしらねかはくまもなし             二条院讃岐 常神半島にはもう一つ有名な島がある。それは百人一首で有名な「沖の石の讃岐」の上述の和歌である。 この島というより岩島は、神子より塩坂の方へ戻る九十九折りの岬のあたりから見えるが、この辺りが二条院讃岐の父であった源三位頼政の所領であり、讃岐もこの若狭へ訪れているらしい。 源三位頼政と言えば鵺退治で有名であるが、保元の乱と平治の乱を勝ち抜き、 平氏が政治を専横する中で、源氏としては初めて三位まで官位を上り詰め、源氏の長老となっていたが、後白河天皇の皇子、以仁王の乱で以仁王に付き敗退して、宇治の平等院で討ち死にをした。歌人としても名を残しており、私の好きな歌に下記がある。 花咲かば告げよといひし花守の   来る音すなり馬に鞍おけ       源三位頼政 若狭の沖の石

「神子ざくら」

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「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長の松岡さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。  神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」    白洲 正子  『かくれ里』「花をもとめて」 先月インターネット俳句会で、 次の拙句を提出した。 海鼠食べ 若狭の顔に なりし妻    予期せぬことに「天」の評価を頂いた。 最初に神子の妻の実家を訪れた時は 何度も九十九折りの海岸線を走るので この世の果てに連れてゆかれるのか と思った。 神子ざくら

「星の王子さまと赤いバラ」

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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中で、印象的な文章は、下記の通りです。 If someone loves a flower of which just one single blossom grows in all the millions and millions of stars it is enough to make him happy just look at the stars. Wenn einer eine Blume liebt die es nur ein einziges Mal gibt auf allen Millionen und Millionen Sternen dann genuegt es ihm voellig dass er zu ihnen hinaufschaut um gluecklich zu sein. Si quelqu'un aime une fleur qui n'existe qu'a un exemplaire dans les millions et les millions d'etoiles ca suffit pour qu'il soit heureux quand il les regarde. 『だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。』   サンテックスのフル・ネームは、 アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ (Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry)だそうです。 リヨンの伯爵家に生まれました。経歴はご存じの通りですが、『星の王子さま』に出てくる赤いバラは、妻コンスエロのことではないかと言われているようです。 またサンテックスは、偵察飛行中にマルセイユ沖でドイツ空軍に撃墜されたようですが、搭乗していた ロッキード F-5B( P-38 の偵察型)、搭乗していたで米国製でした。そしてP-38 ライトニングは、ブーゲンビルで山本五十六長官の飛行機を撃墜したことで有名でもありました。  

「雪月花の時」

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  「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天(白居易) THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES.   原詩は下記の通りです。   寄殷協律 五歳優游同過日 一朝消散似浮雲  琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君   幾度聽鷄歌白日 亦曾騎馬詠紅裙  呉娘暮雨蕭蕭曲 自別江南更不聞 殷協律(いんきょうりつ)に寄す            五歳の優游 同(とも)に日を過ごし 一朝消散して浮雲に似たり 琴詩酒の伴(とも)皆我を抛(なげう)ち 雪月花の時 最も君を憶(おも)ふ 幾度(いくたび)か鶏を聴き白日を歌ひ 亦た曾て馬に騎(の) 紅裙(こうくん)を詠ず 呉娘(ごじょう)の暮雨(ぼう) 蕭蕭(しょうしょう)の曲 江南に別れてより更に聞かず 五年の間、君と過ごした楽しい日々は、ある朝、浮雲のように消え去ってしまった。 琴・詩・酒を楽しんだ仲間は、皆私の前からいなくなり、 雪・月・花の時期には、君をひたすら思い出す。 何回「黄鶏」の歌を聴き、「白日」の曲を歌ったろう。 馬にまたがり、紅衣を着た美人を詠じたこともあった。 呉娘の「暮雨蕭々」の曲は、江南で君と別れてから、一度も聞いていない。 ※殷協律:白楽天が杭州、蘇州刺史だった時の属官。   ○大和二年(828)、一時洛陽に赴いた時の作。 ○詩を寄せた殷協律は、杭州・蘇州での属官にして遊び仲間。 ○ここでは特に江南での遊びを懐かしんでいる。   この詩句がもととなり、「雪月花」は四季の代表的風物をあらわす日本語として定着した。 いくとせの いく万代か 君が代に  雪月花の ともを待ちけん (式子内親王『正治初度百首』) 白妙の 色はひとつに 身にしめど  雪月花の をりふしは見つ (藤原定家『拾遺愚草員外』)

「若狭なる」

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若狭なる三方の海の浜きよみ  いゆきかへらひ見れどあかぬかも (若狭の三方湖の浜は清らかなので、  行きも帰りも見るが見飽きることはない)     詠み人知らず       『万葉集』 巻七 一一七七 常神半島の由来は神功皇后を祀る常神社によるものと言われ、半島の先にある御神島には神が宿っていて、様々な厄災から人々を守ったという。『古事記』には、神功皇后が熊襲征伐に向かう時、角鹿(敦賀)を出て淳田門(ぬたのと)で食事をしたとき、鯛が沢山寄ってきて、神功皇后がお酒を与えると鯛がまどろんで皆浮かんできたという。それ以来、常神半島辺りでは五月になると鯛がよく釣れるという「まどろみ鯛伝説」があるという。神功皇后は息長一族に属しており、古代には近江国坂田郡を根拠地にして、若狭や敦賀一帯を治めていたという。 以下は私見であるが、神功皇后の神から由来しているという説明も肯けるが、表日本であった若狭一帯は朝鮮半島からの入り口でもあり、常神や神子という名前についている神は、韓の国からの渡来人を神として受け入れたという背景もあったのではなかろうか。   常神半島

「そうしましょうね?」

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「 そうしましょうね?   愚か者や意地悪い人たちが、  私たちの幸せを妬んだり、  そねんだりするでしょうが、   私たちは出来るだけ高きにあって、  常に寛容でありましょうね。    そうしましょうね? 「希望」が微笑しながら示して呉れる  つつましい道を、  楽しくゆっくりと  私たちはゆきましょうね、 人が見ていようが、 または知らずにいようが、 そんなことにはかまわずに。   暗い森の中のように 恋の中に世をのがれて、 私たちふたつの心が 恋の甘さ楽しさを歌い出すと、 夕ぐれに歌う二羽の鶯のように 聞こえるでしょうね。」    ポール・ヴェルレーヌ    「そうしましょうね?」 ( N’est-ce pas? )       『やさしい歌 一七』 ( La Bonne Chanson ) より 現代の人類が忘れたものばかりで このポエムは作られている 気高さと寛容  希望と慎ましさ 隠棲と洒脱 そして 愛 小夜鳴き鳥  

「翌檜物語」

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  「トオイ トオイ 山ノオクデ フカイ フカイ 雪ニウズモレテ  ツメタイ ツメタイ 雪ニツツマレテ ネムッテシマウノ イツカ」 冴子 「寒月ガカカレバ 君ヲシノブカナ  アシタカヤマノ フモトニ住マウ」  鮎太 「信子の言い方を以ってすると、多くの人間は大抵翌檜だが、大きくなって檜になる歴とした檜の子もその中に混じっている。ただそれの見分けがつきにくいことが問題だと言うのであった」 「誰が檜の子かしら。大澤さんかしら、鮎太さんかしら」 そんなことを信子はよく言った。」          井上 靖 『翌檜物語』   少年たちは皆檜にならんとする翌檜の木だ   そして年上の高貴で見目麗しき女性に憧れる   翌檜の木    Japanese elk horn ceder     多くの少年たちは翌檜のまま大人になる  そして仲間の内から出た檜を賞賛し支えるのだ              翌檜の木