「言葉というものは」 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 3月 19, 2021 「言葉というものは電光のように通じるもので、それは聞くほうがその言葉を待っているからである」 山本夏彦言葉は不思議なものである。受け取る方にその言葉を待ち受けている心がなければ如何に良い言葉でも受け取る相手には通じないしかし受け取る相手がその言葉を待ち受けていればそれは電光のように相手の心に響き渡り感動を引き起こす良い言葉にすぐに反応できるように日頃から心を磨いて居たいものである伊吹山 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
「芭蕉と蕪村と虚子」 1月 15, 2021 金福寺にての句 うき我を さびしがらせよ 閑古鳥 芭蕉 耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 蕪村 徂く春や 京を一目の 墓どころ 虚子 洛東 金福寺 この金福寺には、ご承知のとおり 芭蕉庵がある。 虚子の句のとおり、寺より少し登った ところにあり、 庵は簡素なものであるが、 京の眺望がよい。 また金福寺は、 井伊直弼の寵愛を一時受け、 その後京の町で、 長野主膳と諜報活動を行った 村山たか女が、 晩年を過ごした寺でもある。 続きを読む
「虹のような言葉の織物」 4月 25, 2021 「さらに美しい虹のような言葉の織物を紡ぎだす」ために 人間は相手の在り方や対応の仕方によって、様々にその在り方や対応を変えるものだと思う。つまり相手をする人間の数だけ、その人は色々な顔を持っているし、色々な人間性を表面に表わすのではなかろうか。太鼓が打ち方によって様々に鳴るように、人間も相手のパーソナリティによって、様々な応え方、響き方をするように思うのである。それ故にこそ、今までの自分になかったような打ち方をしてくれる、人間的に魅力のある人との出会いを、人間という存在は待っているのかもしれない。その邂逅した相手によって、さらに美しい澄んだ響きを鳴らすために。少し気取っていえば、「さらに美しい虹のような言葉の織物を紡ぎだす」ために。 幻の「辻が花」 続きを読む
「花にもの思ふ」 1月 14, 2021 白洲正子は王朝和歌を書いた自作『花にもの思ふ春』の題名を、式子内親王の次の歌から取りました。 「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば 花にもの思ふ春ぞ経にける 式子内親王」 王朝文化の落日の栄光の中にあって、ひとり孤高に歌を詠じた式子内親王の、その内省的な和歌の深い味わいを、白洲正子も愛したのかもしれません。 式子内親王は平安朝末期から鎌倉時代初期の閨秀歌人。後白河院の皇女で、以仁王は同母弟。祖父は鳥羽院で祖母は、有名な待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)です。 十歳で賀茂神社の斎王として卜定(ぼくじょう)され、二十一歳で退下(たいげ)。生涯独身を通しました。 和歌の師は藤原俊成で、その関係で俊成の子定家とも交友。後にお能で「定家蔓」として、十歳年下の定家と愛人関係にあったとされていますが、確かではありません。 定家は「明月記」に、初めて式子に参見した時のことを、「今日初参 … 、薫物馨香芬馥(たきものけいこうふんぷく)」と記しています。 またあるとき俊成が定家の文机のそばに、百人一首の式子内親王の歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする」の内親王自筆を見つけ、二人の仲を注意するのをあきらめた、と言う言い伝えもあるそうです。 式子内親王は定家ではなく法然上人に思いを寄せていたという小説もありました。 新古今時代において式子内親王は「忍ぶる恋を詠ませて当代随一」との評価を得ていたといわれています。そして題詠でありながらもこれらの歌で表現される世界と、歌人としての評価に、幼少からの賀茂斎王としての生活や成長後の長く病気と孤独に苦しんだ実人生が重層化されて伝説の内親王像が形成されたそうです。 式子内親王の和歌で、他に好きなものは下記の通りです。 この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに 花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしといひしにあらず君も聞くらん ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ さかづきに春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに 六義園の枝垂れ桜 続きを読む
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