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「二人行けど」

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「二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を         いかにか君が 独り越ゆらむ」         大伯皇女(おおくのひめみこ)          万葉集  105  はるばると この伊勢の斎宮まで  わたくしを 訪(おとの)うてくれた  弟背(いろせ)  今朝は 大倭(やまと)へと   一人 旅立つ  鈴鹿峠あたりは   秋色あざやかであろうが  二人で 越えるのさへ 寂しいのに  弟背は おひとりで 秋山をゆく  その向こうの 大倭に  待つものを 知りながら  父 大海人(おおあま)の  王(おおきみ)が   ご存命であれば  こうしたことには   ならなかったであろうに  大王 大海人の ご信任篤く  「状貌魁梧、器宇峻遠」  「詩賦の興り、大津より始れり」  とまで いわれた弟背  だが 叔母   鵜野讃良皇后(うののささらの  おおきさき)は  草壁皇子(くさかべのみこ)   擁立のため  弟背 大津皇子を  なきものにせん としている  ああ 今生のわかれ  弟背に ふたたび  見(まみ)えることは   もう かなわぬ夢 二上山の夕景  

「阿留辺幾夜宇和」

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  人は阿留辺幾夜宇和の 七文字を保つべきなり。 僧は僧のあるべきやう。 俗は俗のあるべきやう。 このあるべきやうに背く故に 一切悪しきなり。  (栂尾明恵上人遺訓) 「あるべきようわ」と「あるべきように」との違いがあるみたいですが、要するにその与えられた境遇に即して、その中であるべき自分を見つけて生きなさいということのようです。 臨済義玄の「随所に主となれば、立つ処みな真なり」と、共通するとこがあります。 *白洲正子の「明恵上人」ご参照 明恵上人

「星ひとつ」

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  「星ひとつ 命燃えつつ 流れたり               虚子」   大空の青暗き円屋根に、  燦然と光り輝く夥しい星の数々。  我等人間は、  とても星の数には入らねど、  少しでも輝いて生きたい。  鮮烈な光芒を発して燃え尽きる星に  及ばずとも、  せめて燃え上がることのできる、  命とも呼べるものを胸に抱いて、  生きてゆきたい。

「はかなく」と「はかなし」の和歌

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  <はかなくて> 「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば   花にもの思ふ春ぞ経にける」  式子内親王 「はかなくてこよい明けなばゆくとしの  思ひ出もなき春にや会はなむ」  源 実朝 <はかなしや> 「儚しやさても幾夜か行く水に  数かき侘ぶる鴛の独寝」  飛鳥井 雅経 「はかなしや枕さだめぬうたたねに  ほのかにかよふ夢のかよひ路」  式子内親王 「はかなしや夢もほどなき夏の夜の  寝覚めばかりのわすれがたみは」  俊成女 <はかなしな> 「はかなしな夢に夢見しかけらふの  それも絶えぬる中の契りは」  藤原 定家   「儚い」という同じ言葉を枕に    五人の鎌倉時代初期の歌人が    歌を詠じています    式子内親王は 定家との恋愛を    後世に噂された閨秀歌人    そして俊成女は 俊成の孫で養女    すなわち 定家の姪    また雅経は 定家と実朝の間を    取り持ち    雅経・定家ともに     後鳥羽院歌壇の 中心人物でした 新宿御苑 雨の桜

「美しい花がある」 他

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  「美しい花がある  花が美しいのではない」       小林秀雄   「不思議なことに美しいものは、  印象が薄れるどころか、私の心の中で、  ますます大きく育つかのようです」       「たいせつなのは、  ほんとうにうつくしいものを  見つけて知ることね」 「善悪は一枚の紙の裏表にすぎない。 幸福といい不幸というも」 「「老木に花の咲かんがごとし」 という形容を世阿弥はたびたび用いて、 老人になってからの芸がいかに大切か、 人生の最後に咲いた花こそ、 「まことの花」であると 繰り返し説いています」 「私が欲しいものは、 ” 語り合えるもの ” だった」 「知識や教養などは自己を磨く道具にすぎず、 極論すれば、これらを道具の一つとして、 一心不乱に自己を高めて行く以外、 人間としてはやるべき仕事はない といってもいい」 「一期一会とは、私流に解釈すれば、 結局、自分自身に出会うことである (他人の中における自分に)」 「物心一如」     上記  白洲正子 『行雲抄』 「見る処花にあらずといふ事なし。  思ふ所月にあらずといふ事なし」    芭蕉 酔芙蓉

「小夜の中山」

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  「年たけて また越ゆべしと 思ひきや  命なりけり 小夜の中山    西行 新古今和歌集 九八七 」 ここは 掛川 小夜の中山 東海道中の 難所のひとつ そして 歌枕の地 ここを越えれば 異郷の地 吾妻の国 振り返れば 四十年振りなのだ この 小夜の中山を 越すのは 鳥羽院にお仕えした 北面の武士の頃 中宮 待賢門院璋子さまの  みめ麗しきお姿 出家と 陸奥・出羽への行脚 中宮さまの 法金剛院での お隠れ 高野山での きびしき修験道 中宮さまの御子 崇徳院の    おいたわしい最期 讃岐の国 善通寺での 慰霊       思えば はるけくも    この無常の世の中を 歩んで きたものだ 毎春の 桜花を たよりとして そうして 七十路のこの歳で 東大寺の 重源殿の頼みで 大仏再建のため 東国へ    砂金勧請の旅 ああ こうして もう一度 この小夜の中山の地を 踏もうとは 変わらぬ 山並みと  はるかなる 東の国 この与えられた 余命を  尽くそう 私の命を この天地と 同化させて 残りの道を 歩むのだ 小夜の中山 夜泣石

「衣通姫(そとおりひめ)」

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 軽太子(かるのひつぎのみこ)軽大郎女 (おおいらつめ)に奸(たは)く。この 故にその太子を伊予の湯に流す。この時 に衣通王(そとおりのおおきみ)、恋慕 (しの)ひ堪(あ)へずして追い往(ゆ) くときに、歌ひて曰く 「君が行く日(け) 長くなりぬ  やまたづの  迎かへを行かむ 待つには待たじ          軽大郎女 」  第十九代允恭天皇の皇太子木梨軽皇子 (きなしかるのみこ)は容貌佳麗 (かたちきらきら)しかったが、 同母妹(いろも)で艶妙(かほよ)しの 軽大娘皇女(かるのおおいらつめの ひめみこ)と親々相奸(はらからどちたは) けたるゆえ、伊予の湯(道後温泉)に 流された。 この歌はまた、磐姫皇后(いわのひめの おおきみ)が、仁徳天皇を想って詠ったとも 言われている。 「君が行き日 長くなりぬ 山尋ね   迎えか行かむ 待ちにか待たむ           磐姫皇后 」  軽大郎女は、身体の美しさが、 衣を通して表れることから、衣通姫 と呼ばれた。 「その身の光、衣より通り出づればなり」              古事記 「その艶(にほ)へる色は、衣を徹(とほ)  りて晃(て)れり」             日本書紀 小石川植物園 ソメイヨシノ衣通姫