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「幸せと喜び」

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 幸せになるには必ず何かがなくてはいけなくて、それがあるから幸せなのだ。つまり外界に依存した感情なのだ。  喜びには、そんなものはいらない。眼に見える理由が何一つなくても、私達を包みまるで太陽みたいに自分自身の核を燃やしながら燃え続ける。    「心のおもむくままに」 スザンナ・タマーロ著 『幸せ』=ある人たちといること      あるものを手にしたこと      ある環境にいること   対象もしくは 環境と言う外部的なものにより生ずるもの   受動的幸福感・時限性   『喜び』=ある人たちを愛していること      ある心の状態にいること   精神的もしくは心に関わる内部的なものに   より生じるもの   能動的幸福感・永続性 人間はいつも自分の人生の中にあって、自分ですべてを決定することは出来ない。しかし少なくとも自分で決定できる範囲での自分の生き方は、 自分が主人公となって決定してゆきたい。 そして自分の人生の中で、出来うる限り大きな「喜怒哀楽」を味わっておきたい。自分が選んだ生き方の中で、他者との心の通うかかわりを持って、しっかりと 「喜怒哀楽」を味わうこと。このことが「生きている実感」であり、「生命の燃焼」に繋がるのではなかろうか。 ジヴェルニーのモネの邸宅

「キリストに倣いて」

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「自分に打ち克ち、日毎より強くなり、いくらでも特に進むことが出来ることが、私共の務めでなければならない。」 「すべての言葉や本能を軽々しく信ずるな。むしろ慎重に、気長に、神のみ旨に従って、事をはからねばならない。」 「自分を、自分以上のものに見せようとするな。」     トーマス・ア・ケンピス  『キリストに倣いて』 この本は、広島のN町教会のH神父さんより 二十歳の誕生日に頂いたものである。 時々好きなところを開けて、拾い読みをしてきた。 トーマスはドイツのケルン近郊のケンペン生まれで、 生年1379年、没年1471年である。  ア・ケンピスとは、ケンペン出身のという意味である。 ヴィンチ村のダ・ヴィンチと同じである。 『キリストに倣いて』(『イミタチオ・クリスティ』)は 黙想と祈りを通して神にいたる道を説く著作である。 トーマス・ア・ケンピス

「春の坂」

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春の坂のぼりて恋の願かけに      黛まどか 『京都の恋』 春の産寧坂を ひたすらに清水さんへと のぼる乙女 やっと本堂へ着き 本尊の十一面観世音に 手を合わす どうぞかなえておくれやす 思い人を目に浮かべ 音羽の山に願かける 舞台に出れば花盛り 京洛の町 一望に  

「ボストン美術館」

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『我々は何処から来たのか、  我々は何者か、   我々は何処へ行くのか』 一八九七—九八年    ボストン美術館の中では、ゴーギャンのタヒチでの絵画である『 D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ? 』が特に印象深い。横に長い大きな絵画であり、タヒチの風景の中にタヒチの女たちが大勢描かれていて、右端の幼児から左端の老婆まで、人の一生が描かれている。絵画の題名の方も、また長くて哲学的な名前であり、これを見た人は一生忘れないであろう絵画であると言える。  それ以外に衝撃を受けたのは、浮世絵のコレクションの多さであった。日本美術に造詣が深いアーネスト・フェロノサがボストン美術館の日本部(後に東洋部)の初代部長となったのは、日本政府の依頼を受けて、日本の美術品や秘仏を再発掘して帰国した後のことであった。奈良では、岡倉天心を従えて、法隆寺の秘仏・夢殿観音や聖林寺の秘仏・十一面観音菩薩の禁を解かせて、調査をしたことはよく知られている。フェノロサは廃れようとしていた日本美術や仏像を、再評価して保存を促してくれた日本文化保存の恩人であると言える。岡倉天心も後に同美術館の東洋部長となっている。

「吉田秀和のモーツァルト観」

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  吉田秀和はモーツァルトについてどのように書いているだろうか。まずハイドンとの比較である。 「モーツァルトは、あの偉大で率直で明快なハイドンの芸術に、たった一つ欠けていた何かを音楽に表現した。旋律ひとつとっても、表現の微妙な味わいが無限に豊かになっているし、和声でも半音階的歩みがはるかに柔軟な明暗を刻み付けている。その上に、彼の表現の無類の変化をともなっていながら最終的な形式感の的確さ、清澄さなどを考えあわせると、これは要するに、音楽的感性の違いというものをこえている。ハイドンは、その快活さと誠実との天才で、一八世紀をはるかにぬいて、一九世紀をとびこえて現代につながるが、モーツァルトは、おそらく、いかなる世紀にあっても、音の芸術が革命的に変化しない限り、感性と精神の自由の芸術的完成の象徴としてのこるのかもしれない。」 継いで、ピアノ協奏曲第二一番に関しての短いコメントは下記の通りである。 「そこでもう一つ、純粋に音楽の喜びに満ちた第二一番ハ長調 K 四六七をつけくわえたい。これは簡単直截でありながら、実に素晴らしい音楽に富んでいる。第二楽章のあの静かな叙情など、絶品である。」 モーツァルトは和歌における藤原定家であり 俳句における芭蕉であり 世代と歴史を超えて 生き残る音楽家であると 吉田秀和は言っている。 彫刻においてはロダンが それに近いかもしれないが 絵画においては 具象画と抽象画があって 独りを指定するのは困難である 具象であれば レオナルド・ダ・ヴィンチ 辺りであろうか

「映画 ELVIRA MADIGAN(短くも美しく燃え)」

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モーツァルトのピアノ協奏曲第二一番についてのアインシュタインの言葉。 “The whole concerto is one of the most beautiful examples of Mozart’s iridescent harmony and the breath of domain embraced in his conception of the key of C major.  -----When one listens to such a work, one understands why Mozart wrote no symphonies in the earlier Vienna years, for these concertos are symphonic in the highest sense, and Mozart did not need to turn to the field of the pure symphony until that of the concerto was closed to him.” 「協奏曲全体は、モーツァルトの玉虫色のハーモニーの最も美しい例のひとつであり、ハ長調の鍵の概念に包含された領域の息吹です。 ----- このような作品を聴くと、モーツァルトが初期のウィーン時代に交響曲を書かなかった理由がわかります。なぜなら、これらの協奏曲は最高の意味で交響曲であり、モーツァルトは純粋な交響曲の分野に目を向ける必要がなかったからです。 そのような協奏曲が彼によって閉じられてしまうまで。」   この協奏曲は、モーツァルトがウィーンに滞在していた一七八五年に作曲された第二〇番、第二一番、第二二番の二番目に作曲された。モーツァルトはその時二九歳であり、モーツァルト自身によりウィーンのブルク劇場で一七八五年三月一〇日に初演されている。 諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』によれば、「映画 ELVIRA MADIGAN (短くも美しく燃え)」でバックグラウンド・ミュージックに用いられたアンダンテ(第二楽章)が広く知られており、その美しさには筆舌を尽くし難い、最良のモーツァルトの高雅なまでに洗練されたリリシズムが感じられる」と著わしている。 「短くも美しく燃え」

「沖の石の讃岐」

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  わが袖は塩干に見えぬ沖の石の        人こそしらねかはくまもなし             二条院讃岐 常神半島にはもう一つ有名な島がある。それは百人一首で有名な「沖の石の讃岐」の上述の和歌である。 この島というより岩島は、神子より塩坂の方へ戻る九十九折りの岬のあたりから見えるが、この辺りが二条院讃岐の父であった源三位頼政の所領であり、讃岐もこの若狭へ訪れているらしい。 源三位頼政と言えば鵺退治で有名であるが、保元の乱と平治の乱を勝ち抜き、 平氏が政治を専横する中で、源氏としては初めて三位まで官位を上り詰め、源氏の長老となっていたが、後白河天皇の皇子、以仁王の乱で以仁王に付き敗退して、宇治の平等院で討ち死にをした。歌人としても名を残しており、私の好きな歌に下記がある。 花咲かば告げよといひし花守の   来る音すなり馬に鞍おけ       源三位頼政 若狭の沖の石