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「芭蕉と蕪村と虚子」

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金福寺にての句    うき我を さびしがらせよ 閑古鳥                        芭蕉    耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵                         蕪村    徂く春や 京を一目の 墓どころ                         虚子     洛東 金福寺             この金福寺には、ご承知のとおり    芭蕉庵がある。        虚子の句のとおり、寺より少し登った    ところにあり、    庵は簡素なものであるが、    京の眺望がよい。    また金福寺は、    井伊直弼の寵愛を一時受け、    その後京の町で、    長野主膳と諜報活動を行った    村山たか女が、    晩年を過ごした寺でもある。  

「恋ひ恋ひて」

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  「こひ」は 「恋ひ」「祈ひ」「請ひ」 に繋がるといわれています。 昔の「こひ」は 単に「恋しいこと」だけではなかったようです。 それは「祈り」でもあり また「請願すること」でも あったようです。 「恋ひ恋ひて 逢へるときだに 愛(うつく)しき  言尽くしてよ 長くと念(おも)はば            大伴坂上郎女  」 「愛」を「うつくし」と読み 「念」を「おもう」と読むことも こうしてみれば そこはかとなく ゆかしいものを感じます。 東大寺 二月堂

「茜 さ す」

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          poem by Princess Nukada when        the Emperor went hunting on        the fields of Gamou. Going this way on the crimson-gleaming fields of mursaki grass going that way on the fields of imperial domain --- w'ont the guardians of the fields see you wave your sleeves at me ?       Princess Nukada 」 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る                     額田王 昔、岩崎ちひろの絵が描かれた「万葉集-恋の歌」という本を読んで、初めて額田王と大海人皇子と中大兄皇子の三角関係を知った。 それが万葉集を拾い読みし始める、きっかけであったとも言える。 額田王の本や、大海人皇子後の天武天皇にかかわる歴史の本も読んだが、この二人ともに出自が曖昧模糊としているのは、皇室が天智王朝であるからともいえようか。 そのことは別にしても、たとえこの歌が一時の座興であったとしても、実際に愛し合い、その間に十市皇女までなした二人の相聞歌は、 自然の中で色めいて、美しい。   『額田女王』

「我が心 焼くも」

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  我が心焼くも我れなりはしきやし           君に恋ふるも我が心から」 「我情 焼毛吾有 愛八師 君尓戀毛 我之心柄」              詠人不知           (巻十三の三二七一) 敷島の大和の国の揺籃期に、 万葉集というスメラミコト(大王=オオキミ)から、 東歌や防人の歌のように民草まで、 上下の別なくその歌を取り入れた 国民的詩歌集を持っていることは、 我が国の誇りであろう。 伝飛鳥板蓋宮跡

<「夢」の歌と「命」の歌>

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<「夢」の歌> 「夢よりもはかなきものは夏の夜の あかつきがたのわかれなりけり」                       壬生忠岑 「逢ふと見てうつつに甲斐はなけれども はかなき夢ぞ命なりける」                      藤原家隆                               忠岑の歌は、恋しい人と一夜を共にした後の後朝の別れを詠い、家隆の歌は、禁じられた恋の思い人に逢うことの出来ない哀しみを詠いながらも、今は夢で逢うことが命であるという悲恋を詠じています。  共に「夢」と「はかなき」の言葉を使っているのも、興趣があります。 <「命」の歌> 「逢ふと見てうつつに甲斐はなけれども はかなき夢ぞ命なりける」                       藤原家隆                                      「年長けてまた越ゆべしと思ひきや 小夜の中山命なりけり」                        西行                                   禁じられた恋に命を賭けている家隆の歌と、生きてきたこの歳月をしみじみと噛み締めている西行の歌。共に「命なりける(り)」の言葉が、歌の中核となって読む人の心を打ちます。  定家に比べればやや地味ながら、清冽な歌を詠んだ家隆の歌が、上にあげた「夢」と「命」の「歌の掛け橋」となっていることが、とても面白いと感じています。  この西行の歌を本歌取りした芭蕉の俳句は、次の通りです。 「命二ツ 中に活きたる 桜哉」 高遠城の子彼岸桜  

「花にもの思ふ」

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白洲正子は王朝和歌を書いた自作『花にもの思ふ春』の題名を、式子内親王の次の歌から取りました。 「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば       花にもの思ふ春ぞ経にける  式子内親王」  王朝文化の落日の栄光の中にあって、ひとり孤高に歌を詠じた式子内親王の、その内省的な和歌の深い味わいを、白洲正子も愛したのかもしれません。 式子内親王は平安朝末期から鎌倉時代初期の閨秀歌人。後白河院の皇女で、以仁王は同母弟。祖父は鳥羽院で祖母は、有名な待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)です。 十歳で賀茂神社の斎王として卜定(ぼくじょう)され、二十一歳で退下(たいげ)。生涯独身を通しました。 和歌の師は藤原俊成で、その関係で俊成の子定家とも交友。後にお能で「定家蔓」として、十歳年下の定家と愛人関係にあったとされていますが、確かではありません。 定家は「明月記」に、初めて式子に参見した時のことを、「今日初参 … 、薫物馨香芬馥(たきものけいこうふんぷく)」と記しています。 またあるとき俊成が定家の文机のそばに、百人一首の式子内親王の歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする」の内親王自筆を見つけ、二人の仲を注意するのをあきらめた、と言う言い伝えもあるそうです。 式子内親王は定家ではなく法然上人に思いを寄せていたという小説もありました。 新古今時代において式子内親王は「忍ぶる恋を詠ませて当代随一」との評価を得ていたといわれています。そして題詠でありながらもこれらの歌で表現される世界と、歌人としての評価に、幼少からの賀茂斎王としての生活や成長後の長く病気と孤独に苦しんだ実人生が重層化されて伝説の内親王像が形成されたそうです。 式子内親王の和歌で、他に好きなものは下記の通りです。 この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに 花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしといひしにあらず君も聞くらん ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ さかづきに春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに 六義園の枝垂れ桜