「花にもの思ふ」

白洲正子は王朝和歌を書いた自作『花にもの思ふ春』の題名を、式子内親王の次の歌から取りました。

「はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば 

     花にもの思ふ春ぞ経にける  式子内親王」

 王朝文化の落日の栄光の中にあって、ひとり孤高に歌を詠じた式子内親王の、その内省的な和歌の深い味わいを、白洲正子も愛したのかもしれません。


式子内親王は平安朝末期から鎌倉時代初期の閨秀歌人。後白河院の皇女で、以仁王は同母弟。祖父は鳥羽院で祖母は、有名な待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)です。

十歳で賀茂神社の斎王として卜定(ぼくじょう)され、二十一歳で退下(たいげ)。生涯独身を通しました。

和歌の師は藤原俊成で、その関係で俊成の子定家とも交友。後にお能で「定家蔓」として、十歳年下の定家と愛人関係にあったとされていますが、確かではありません。

定家は「明月記」に、初めて式子に参見した時のことを、「今日初参、薫物馨香芬馥(たきものけいこうふんぷく)」と記しています。

またあるとき俊成が定家の文机のそばに、百人一首の式子内親王の歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする」の内親王自筆を見つけ、二人の仲を注意するのをあきらめた、と言う言い伝えもあるそうです。

式子内親王は定家ではなく法然上人に思いを寄せていたという小説もありました。

新古今時代において式子内親王は「忍ぶる恋を詠ませて当代随一」との評価を得ていたといわれています。そして題詠でありながらもこれらの歌で表現される世界と、歌人としての評価に、幼少からの賀茂斎王としての生活や成長後の長く病気と孤独に苦しんだ実人生が重層化されて伝説の内親王像が形成されたそうです。

式子内親王の和歌で、他に好きなものは下記の通りです。

この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに

花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする

忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を

恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしといひしにあらず君も聞くらん

ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ

さかづきに春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに




六義園の枝垂れ桜


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