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「祇園月夜」

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  「あでやかに 君がつかへる 扇より   祇園月夜と なりにけらしな            吉井 勇 」 鴨川踊りを見た後 先斗町の 狭い路地を  二人は歩いた 歩きながら 貴女は 小さな 茶席用の  可愛い扇を 舞妓の使ったように  くるりと 閃かせた 四条橋の たもとから  河原に降りた 祇園さんの  八坂神社のあるほうの 東山に  十六夜の月が  懸かっていた 祇園 新橋

「春ごとに 花のさかりは」

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  「春ごとに 花のさかりは ありなめど  あひ見むことは いのちなりけり       詠人不知(古今集) 」   くり返し くり返し    春の訪れるたびに 桜の花は    命とばかりに 美しい花を咲かせる   あおによしの寧良(なら)   と詠われた天平の御代も    平安から鎌倉にかけての   動乱の中に咲いた新古今の御代も   そうして我らの生きる今も   また今から一千年後にも   この地上が生きとし生けるものを育み   夜空の群青色の王冠たる星空を戴くかぎり   桜はその命たる華麗な花を   咲かせつづけるだろう   われらモータル(死すべき)な   存在にとっては   この永遠に常永久(とことわ)に   咲きつづける桜花を   愛(め)でることが   自らの命を よりよく感じるときなのだ   桜花という自然の命と   己が命を    ひとつに 重ねつつ 京都 原谷苑

「この世をば」

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  この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば                   藤原 道長 藤原不比等の子・房前に始まる北家藤原氏の全盛時代は、何と言っても藤原道長の時代であった。  道長はその娘四人を天皇に嫁がせて、外祖父という絆の強い婚姻関係でその権力を集中させ、強大なものとしていった。  即位順で見れば、まず円融天皇の皇子・一条天皇には長保元年(九九九年)その二十歳の折りに、十二歳の自らの長女彰子(あきこ)を女御として嫁がせている。  しかし一条天皇には道長の兄道隆の長女である中宮定子(さだこ)がすでに正暦元年(九九〇年)に嫁いでいた。  十一歳で元服した一条天皇に、添臥の女御として十五歳の定子が入内していたのである。  そして翌年には「中宮定子を皇后、女御彰子を中宮とする」という勅が出されている。  しかし道隆が病死した後、その子伊周(これちか)は道長との政争に破れ、定子は出家していた。  にもかかわらず一条天皇は尼となった定子を手離さず、定子は彰子入内のその年に、敦康(あつやす)親王を出産している。  そして定子はすぐに再び妊娠し、翌年産褥死してしまう。  この定子に仕えていたのが、清少納言であり、彰子に仕えていたのが、紫式部や和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などである。      そして紫式部が「源氏物語」を書いた時期は、彰子が入内してからやっと十年後に皇子(後の後一条天皇)を産んだ、長徳元年(九九五年)から寛弘元年(一〇〇四年)の十年間であるという。 吉野山 一目千本桜

「立原道造の月」

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  「美しいものになら ほほえむがよい  涙よ いつまでも かわかずにあれ  陽は 大きな景色の あちらに沈みゆき  あのものがなしい 月が燃え立った …  」        立原道造 「溢れひたす闇に」 日本人のような それでいて西洋人のような 立原道造 彼の詩は  古今集とリルケのあわいの中にある と芳賀徹は「詩歌の森へ」の中で 言っています か弱く 美しく 甘く 物悲しい 月

「文章の気合」

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  「美」ということについて、これほど直截に、さわやかに語った人が他にあるだろうか。白洲さんの文章は、練達の剣士の剣舞を見ているような味があった。風に揺れる花のようだが、近寄ると切られるという気合がこもっていた。日本のすべての人に読んでいただきたい書物である。                        河合隼雄 白洲正子の文章には、独特の切れ味がある。 白洲正子にインタビューを受けるのを怖がったまやかしものの人間にとっては、その文章で本質を突かれれば、満身創痍にならざるを得ない、そういった切れ味である。 それが我々第三者には、極めて小気味がよいものとして感じられる。 そこには本質を抉り出そうとする気合が篭っている。 作文そのものが、いってみれば薩摩示現流の真剣勝負なのである。 武相荘の書斎

「星となる夜」

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ああ こんな夜に 清い月の光で わたしは粉々に砕かれる 心には少しの悩みもなく 淡々とした気持ちで わたしは無限の彼方へ引きづり込まれる 思考の許されない彼方で わたしは小さな花火の如く 夜空に閃きちりばめられる 永遠に星となって アンドロメダ座

「人生無上の楽しみ」

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  「心許した友と、いささかの酒を含みながら、人物を論じ、古典を論じ、古典を語るのは、人生無上の楽しみの一つである。」              伊藤 肇 『帝王学ノート』     「酒 知己ニ逢ヘバ 千 鐘 モ少ナシ    話 機ニ投ゼザレバ 半句モ多シ」             明末 『琵琶記』              安岡正篤の本は難しいけれど、その弟子だった伊藤肇の『帝王学ノート』には、感銘を受けました。 安岡先生と囲炉裏を囲んで、その囲炉裏に薔薇の香木を焚いて、雲遮月の話しをするところが書かれていました。 雲遮月とは徒然草の「月はくまなきものを見るものかは」ということです。 こういう会を、人生に一度でももてれば、幸せそのものでしょう。 「至福の時」というのは、我々凡人は悦楽の極みの時に感じるけど、本当に長く心の中に残る「至福の時」というのは、こういう清談のときかもしれません。 祇園 白川橋