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「木の下隠り」

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 秋山の 木の下隠り 逝く水の  われこそ益さめ 御思よりは                鏡 王女      あの 貴いお方を 慕いながら      わたくしは 錦繍の秋の山に       ひとり 踏み分けて 入ります      清冽な小川が       金色と茜色に染まった 紅葉の下を      流れ逝きます      わたくしの あのお方への 想いも      木の下の流れのように      表に現れなくとも しめやかに      流れてゆきます      それは あの方の       わたくしへの み想いよりは      さらに いや増して       溢れんばかりの 情愛を湛えて      あのお方にだけ       注ぎこんでゆく流れです      あの 中大兄の皇子さま にだけ 嵯峨野・宝篋院

「幸せな人になる為には」

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「世の中には、蕪村を知っている幸せな人と  蕪村をまだ知らない不幸せなひとしかいない」  という文章を、  森本哲郎の「月は東に-蕪村の夢・漱石の幻」  で読んだ記憶があります。  森本哲郎と私自身の美的感覚が近しいのか、  彼のこの本で、すっかり蕪村のファンになったのは、  もう随分前のことでした。 「愁ひつつ 丘に登れば 花いばら」  この句を読んだときなど、  これはあたかもゲーテの 「童は見たり 野中のばら」  の世界ではないかと、思ったものでした。  郷愁の詩人「与謝蕪村」が、  いかに純粋な心と温かい歌唱力を  生涯持ち続けていたかが、  これらの句でもよく判ります。   野ばら

「芭蕉と蕪村と虚子」

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金福寺にての句    うき我を さびしがらせよ 閑古鳥                        芭蕉    耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵                         蕪村    徂く春や 京を一目の 墓どころ                         虚子     洛東 金福寺             この金福寺には、ご承知のとおり    芭蕉庵がある。        虚子の句のとおり、寺より少し登った    ところにあり、    庵は簡素なものであるが、    京の眺望がよい。    また金福寺は、    井伊直弼の寵愛を一時受け、    その後京の町で、    長野主膳と諜報活動を行った    村山たか女が、    晩年を過ごした寺でもある。  

「恋ひ恋ひて」

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  「こひ」は 「恋ひ」「祈ひ」「請ひ」 に繋がるといわれています。 昔の「こひ」は 単に「恋しいこと」だけではなかったようです。 それは「祈り」でもあり また「請願すること」でも あったようです。 「恋ひ恋ひて 逢へるときだに 愛(うつく)しき  言尽くしてよ 長くと念(おも)はば            大伴坂上郎女  」 「愛」を「うつくし」と読み 「念」を「おもう」と読むことも こうしてみれば そこはかとなく ゆかしいものを感じます。 東大寺 二月堂

「茜 さ す」

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          poem by Princess Nukada when        the Emperor went hunting on        the fields of Gamou. Going this way on the crimson-gleaming fields of mursaki grass going that way on the fields of imperial domain --- w'ont the guardians of the fields see you wave your sleeves at me ?       Princess Nukada 」 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る                     額田王 昔、岩崎ちひろの絵が描かれた「万葉集-恋の歌」という本を読んで、初めて額田王と大海人皇子と中大兄皇子の三角関係を知った。 それが万葉集を拾い読みし始める、きっかけであったとも言える。 額田王の本や、大海人皇子後の天武天皇にかかわる歴史の本も読んだが、この二人ともに出自が曖昧模糊としているのは、皇室が天智王朝であるからともいえようか。 そのことは別にしても、たとえこの歌が一時の座興であったとしても、実際に愛し合い、その間に十市皇女までなした二人の相聞歌は、 自然の中で色めいて、美しい。   『額田女王』

「我が心 焼くも」

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  我が心焼くも我れなりはしきやし           君に恋ふるも我が心から」 「我情 焼毛吾有 愛八師 君尓戀毛 我之心柄」              詠人不知           (巻十三の三二七一) 敷島の大和の国の揺籃期に、 万葉集というスメラミコト(大王=オオキミ)から、 東歌や防人の歌のように民草まで、 上下の別なくその歌を取り入れた 国民的詩歌集を持っていることは、 我が国の誇りであろう。 伝飛鳥板蓋宮跡

<「夢」の歌と「命」の歌>

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<「夢」の歌> 「夢よりもはかなきものは夏の夜の あかつきがたのわかれなりけり」                       壬生忠岑 「逢ふと見てうつつに甲斐はなけれども はかなき夢ぞ命なりける」                      藤原家隆                               忠岑の歌は、恋しい人と一夜を共にした後の後朝の別れを詠い、家隆の歌は、禁じられた恋の思い人に逢うことの出来ない哀しみを詠いながらも、今は夢で逢うことが命であるという悲恋を詠じています。  共に「夢」と「はかなき」の言葉を使っているのも、興趣があります。 <「命」の歌> 「逢ふと見てうつつに甲斐はなけれども はかなき夢ぞ命なりける」                       藤原家隆                                      「年長けてまた越ゆべしと思ひきや 小夜の中山命なりけり」                        西行                                   禁じられた恋に命を賭けている家隆の歌と、生きてきたこの歳月をしみじみと噛み締めている西行の歌。共に「命なりける(り)」の言葉が、歌の中核となって読む人の心を打ちます。  定家に比べればやや地味ながら、清冽な歌を詠んだ家隆の歌が、上にあげた「夢」と「命」の「歌の掛け橋」となっていることが、とても面白いと感じています。  この西行の歌を本歌取りした芭蕉の俳句は、次の通りです。 「命二ツ 中に活きたる 桜哉」 高遠城の子彼岸桜