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「吉田秀和のモーツァルト観」

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  吉田秀和はモーツァルトについてどのように書いているだろうか。まずハイドンとの比較である。 「モーツァルトは、あの偉大で率直で明快なハイドンの芸術に、たった一つ欠けていた何かを音楽に表現した。旋律ひとつとっても、表現の微妙な味わいが無限に豊かになっているし、和声でも半音階的歩みがはるかに柔軟な明暗を刻み付けている。その上に、彼の表現の無類の変化をともなっていながら最終的な形式感の的確さ、清澄さなどを考えあわせると、これは要するに、音楽的感性の違いというものをこえている。ハイドンは、その快活さと誠実との天才で、一八世紀をはるかにぬいて、一九世紀をとびこえて現代につながるが、モーツァルトは、おそらく、いかなる世紀にあっても、音の芸術が革命的に変化しない限り、感性と精神の自由の芸術的完成の象徴としてのこるのかもしれない。」 継いで、ピアノ協奏曲第二一番に関しての短いコメントは下記の通りである。 「そこでもう一つ、純粋に音楽の喜びに満ちた第二一番ハ長調 K 四六七をつけくわえたい。これは簡単直截でありながら、実に素晴らしい音楽に富んでいる。第二楽章のあの静かな叙情など、絶品である。」 モーツァルトは和歌における藤原定家であり 俳句における芭蕉であり 世代と歴史を超えて 生き残る音楽家であると 吉田秀和は言っている。 彫刻においてはロダンが それに近いかもしれないが 絵画においては 具象画と抽象画があって 独りを指定するのは困難である 具象であれば レオナルド・ダ・ヴィンチ 辺りであろうか

「映画 ELVIRA MADIGAN(短くも美しく燃え)」

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モーツァルトのピアノ協奏曲第二一番についてのアインシュタインの言葉。 “The whole concerto is one of the most beautiful examples of Mozart’s iridescent harmony and the breath of domain embraced in his conception of the key of C major.  -----When one listens to such a work, one understands why Mozart wrote no symphonies in the earlier Vienna years, for these concertos are symphonic in the highest sense, and Mozart did not need to turn to the field of the pure symphony until that of the concerto was closed to him.” 「協奏曲全体は、モーツァルトの玉虫色のハーモニーの最も美しい例のひとつであり、ハ長調の鍵の概念に包含された領域の息吹です。 ----- このような作品を聴くと、モーツァルトが初期のウィーン時代に交響曲を書かなかった理由がわかります。なぜなら、これらの協奏曲は最高の意味で交響曲であり、モーツァルトは純粋な交響曲の分野に目を向ける必要がなかったからです。 そのような協奏曲が彼によって閉じられてしまうまで。」   この協奏曲は、モーツァルトがウィーンに滞在していた一七八五年に作曲された第二〇番、第二一番、第二二番の二番目に作曲された。モーツァルトはその時二九歳であり、モーツァルト自身によりウィーンのブルク劇場で一七八五年三月一〇日に初演されている。 諸井誠の『ピアノ名曲名盤一〇〇』によれば、「映画 ELVIRA MADIGAN (短くも美しく燃え)」でバックグラウンド・ミュージックに用いられたアンダンテ(第二楽章)が広く知られており、その美しさには筆舌を尽くし難い、最良のモーツァルトの高雅なまでに洗練されたリリシズムが感じられる」と著わしている。 「短くも美しく燃え」

「沖の石の讃岐」

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  わが袖は塩干に見えぬ沖の石の        人こそしらねかはくまもなし             二条院讃岐 常神半島にはもう一つ有名な島がある。それは百人一首で有名な「沖の石の讃岐」の上述の和歌である。 この島というより岩島は、神子より塩坂の方へ戻る九十九折りの岬のあたりから見えるが、この辺りが二条院讃岐の父であった源三位頼政の所領であり、讃岐もこの若狭へ訪れているらしい。 源三位頼政と言えば鵺退治で有名であるが、保元の乱と平治の乱を勝ち抜き、 平氏が政治を専横する中で、源氏としては初めて三位まで官位を上り詰め、源氏の長老となっていたが、後白河天皇の皇子、以仁王の乱で以仁王に付き敗退して、宇治の平等院で討ち死にをした。歌人としても名を残しており、私の好きな歌に下記がある。 花咲かば告げよといひし花守の   来る音すなり馬に鞍おけ       源三位頼政 若狭の沖の石

「神子ざくら」

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「若狭のどこかに『神子ざくら』といって、大そうきれいな花があることを聞いていたが、へんぴな所らしく、京都でたずねてみても誰も知っている人はいない。仕方なしに、東京の編集者さんにしらべて貰うと、それは敦賀と小浜の間につき出た、常神半島の一角にある、神子部落という村で、桜は満開だから、今日明日にも来い、ということである。電話に出たのは、その村の区長さんで、京都からくるなら、車の方がいい、敦賀に出て、国道を西へ行くと、三方という町がある、そこで聞けばわかると、ことこまやかに教えて下さった。」 「神子に近づくにしたがい、大木の桜があちらこちらに見えはじめ、塩坂、遊子、小川を過ぎ、最後の岬を回ったとたん、山から下の浜へかけて、いっきに崩れ落ちる花の滝が現出した。人に聞くまでもなく、それが名におう『神子ざくら』であった。」 「嘗ての嵐山も、ほぼこれに近い盛観だったのではあるまいか。区長の松岡さんに伺ったところによると、この桜は観賞用に植えたものではなく、ころび(桐実と書く、油をとる木)の畑の境界に植えたものとかで、村人の生活と結びついていたために、手入れもよく行きとどいた。そういわれてみると、やや正確な井桁模様に咲いており、そういう風習がなくなった今日、保って行くのは大変なことではないかと思う。  神子は古く『御賀尾』と書き、それがつまってミコと呼ばれるようになったと聞く。だが、古い歴史を持つ土地がらであってみれば、必ず神様と関係があったに違いない。」    白洲 正子  『かくれ里』「花をもとめて」 先月インターネット俳句会で、 次の拙句を提出した。 海鼠食べ 若狭の顔に なりし妻    予期せぬことに「天」の評価を頂いた。 最初に神子の妻の実家を訪れた時は 何度も九十九折りの海岸線を走るので この世の果てに連れてゆかれるのか と思った。 神子ざくら

「星の王子さまと赤いバラ」

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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中で、印象的な文章は、下記の通りです。 If someone loves a flower of which just one single blossom grows in all the millions and millions of stars it is enough to make him happy just look at the stars. Wenn einer eine Blume liebt die es nur ein einziges Mal gibt auf allen Millionen und Millionen Sternen dann genuegt es ihm voellig dass er zu ihnen hinaufschaut um gluecklich zu sein. Si quelqu'un aime une fleur qui n'existe qu'a un exemplaire dans les millions et les millions d'etoiles ca suffit pour qu'il soit heureux quand il les regarde. 『だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。』   サンテックスのフル・ネームは、 アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ (Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry)だそうです。 リヨンの伯爵家に生まれました。経歴はご存じの通りですが、『星の王子さま』に出てくる赤いバラは、妻コンスエロのことではないかと言われているようです。 またサンテックスは、偵察飛行中にマルセイユ沖でドイツ空軍に撃墜されたようですが、搭乗していた ロッキード F-5B( P-38 の偵察型)、搭乗していたで米国製でした。そしてP-38 ライトニングは、ブーゲンビルで山本五十六長官の飛行機を撃墜したことで有名でもありました。  

「雪月花の時」

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  「雪月花の時、最も友を思ふ」  白楽天(白居易) THE TIME OF THE SNOWS, OF THE MOON, OF THE BLOSSOMS - THEN MORE THAN EVER WE THINK OF OUR COMRADES.   原詩は下記の通りです。   寄殷協律 五歳優游同過日 一朝消散似浮雲  琴詩酒伴皆抛我 雪月花時最憶君   幾度聽鷄歌白日 亦曾騎馬詠紅裙  呉娘暮雨蕭蕭曲 自別江南更不聞 殷協律(いんきょうりつ)に寄す            五歳の優游 同(とも)に日を過ごし 一朝消散して浮雲に似たり 琴詩酒の伴(とも)皆我を抛(なげう)ち 雪月花の時 最も君を憶(おも)ふ 幾度(いくたび)か鶏を聴き白日を歌ひ 亦た曾て馬に騎(の) 紅裙(こうくん)を詠ず 呉娘(ごじょう)の暮雨(ぼう) 蕭蕭(しょうしょう)の曲 江南に別れてより更に聞かず 五年の間、君と過ごした楽しい日々は、ある朝、浮雲のように消え去ってしまった。 琴・詩・酒を楽しんだ仲間は、皆私の前からいなくなり、 雪・月・花の時期には、君をひたすら思い出す。 何回「黄鶏」の歌を聴き、「白日」の曲を歌ったろう。 馬にまたがり、紅衣を着た美人を詠じたこともあった。 呉娘の「暮雨蕭々」の曲は、江南で君と別れてから、一度も聞いていない。 ※殷協律:白楽天が杭州、蘇州刺史だった時の属官。   ○大和二年(828)、一時洛陽に赴いた時の作。 ○詩を寄せた殷協律は、杭州・蘇州での属官にして遊び仲間。 ○ここでは特に江南での遊びを懐かしんでいる。   この詩句がもととなり、「雪月花」は四季の代表的風物をあらわす日本語として定着した。 いくとせの いく万代か 君が代に  雪月花の ともを待ちけん (式子内親王『正治初度百首』) 白妙の 色はひとつに 身にしめど  雪月花の をりふしは見つ (藤原定家『拾遺愚草員外』)

「若狭なる」

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若狭なる三方の海の浜きよみ  いゆきかへらひ見れどあかぬかも (若狭の三方湖の浜は清らかなので、  行きも帰りも見るが見飽きることはない)     詠み人知らず       『万葉集』 巻七 一一七七 常神半島の由来は神功皇后を祀る常神社によるものと言われ、半島の先にある御神島には神が宿っていて、様々な厄災から人々を守ったという。『古事記』には、神功皇后が熊襲征伐に向かう時、角鹿(敦賀)を出て淳田門(ぬたのと)で食事をしたとき、鯛が沢山寄ってきて、神功皇后がお酒を与えると鯛がまどろんで皆浮かんできたという。それ以来、常神半島辺りでは五月になると鯛がよく釣れるという「まどろみ鯛伝説」があるという。神功皇后は息長一族に属しており、古代には近江国坂田郡を根拠地にして、若狭や敦賀一帯を治めていたという。 以下は私見であるが、神功皇后の神から由来しているという説明も肯けるが、表日本であった若狭一帯は朝鮮半島からの入り口でもあり、常神や神子という名前についている神は、韓の国からの渡来人を神として受け入れたという背景もあったのではなかろうか。   常神半島