「作庭は最初は荒び (すさび) であった、と私は考えている。慰み、遊び、と解釈してもらってもよい。古い作庭書を読むと荒びを感じさせる個所がかなりある。この荒びを美意識として昇華させ表象させたのが禅寺の庭である。」 立原正秋 『日本の庭』 京都の龍安寺の石庭の作者については、諸説があるようである。 開山の義玄天承、寺を建立した細川勝元、絵師であり義政の同胞衆であった相阿彌、勝元の実子細川政元、西芳寺の住職子建西堂、それに茶人の金森宗和などである。 但し、この庭の左から二つ目の石組みの裏側に、「小太郎、彦二郎」という名が刻まれている。 この庭師は 1490 年頃に存在したことが記録として残っており、そこから類推すれば時代的には細川政元が庭を着想し、小太郎・彦二郎に造築させたという説が成り立つようである。 政元は奇行の多い人間で、かつ倹約家でもあったという。 応仁の乱後の財政逼迫の下で、石と砂のみの庭を考えたこともあり得ることではある。 高さ一・八メートルの油土塀は屋根が異様に大きく、右手奥の西側の壁が南へ行くに従って徐々に低くなる、遠近法を用いている。 油土塀は土を大釜でよく煮て、その土に塩の苦汁(ニガリ)を混ぜて叩いた、非常に堅固な壁である。 大きな柿葺きの屋根と土塀の灰色と肌色の混じった色調、それに白砂と石がまた灰色と肌色の混色であり、それらが全て照応して背景の木々の緑と見事な色調の調和した景観を造り上げている。 灰色は寂しさを、肌色は暖かさを表し、それが土塀の灰色の抽象的とも言える模様と相まって、幽玄さを醸し出している。 方丈裏に水戸光圀寄進の、「吾唯知足」の龍安寺形手水鉢の複製がある。 知足は老子の言葉であるという。 龍安寺 石庭