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「あくがるる 心はさても」

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  「敷島の やまと心を 人問はば      朝日に匂ふ 山桜花               本居宣長」 これは「花は桜 人は武士」の言葉と、桜の落花と戦争での散華を重ね合わせたイメージで、潔く散る武士(もののふ)のやまと魂を表現した歌のように、解釈されてきました。 でも実際はもっと素直に、日本人の心のありかを表わしたものなのでしょうね。 「あくがるる 心はさても 山ざくら    ちりなんのちや 身にかへるべき         西行[新後撰 91 ]」 山桜の歌は、何といっても西行が一番だと思います。 市ヶ谷 新見附橋

「あはれ うるわしの」

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  「あはれ  美わしの青春も  過ぎ行けば  楽しめよ  われ、明日知らぬ  命なれば」  ロレンツォ・デ・メディチ フィレンツェで栄華を誇った かのメディチ家のロレンツォですら このように歌いました 人生を愉しむ術を覚えることこそが 人生で一番大切なことのようです 花の聖母大聖堂 フィレンツェ

「さまざまの こと思い出す」

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  「さまざまのこと思い出す桜かな               芭蕉」 人生の中には、色々な桜の 想い出があります。 たとえ喜ばしい想い出でも、   桜に絡んだ思い出はそこはかとなく   儚さに彩られているような気もします。 愛の無常とも落花流水とも つながるような儚さ。 それは短い時季のみ咲き乱れ、   やがてすぐに散ってしまう桜の イメージが、   その思い出の背景に   横たわっているからでありましょうか。 喜びにつけ、悲しみにつけ、   さまざまの 桜を思い出すこと。 小石川後楽園の池

「願わくは」

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  願はくは、  この真に貴族的なものよ、  たった一人で行け、  私達地上のものには目もくれず、  天を仰いで一人で行け、  落日のようにおごそかに  落花のようにうつくしく              白洲正子 「散ればこそ」 真に貴族的なものとは  世阿弥の能  利休の侘茶  芭蕉の俳句 等 本当に貴いものは いつも孤独なのだ それは 大衆を離れて 孤高なのだ 天を目指すが故に そうして 独りであるが故に おごそかであり うつくしいのだ  「草野」 古澤万千子

「花は華となる」

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  「花は華となる 一秒間のまなざし    広嶋 美恵子 」  やっとお逢い出来た    あのお方  でも 今は   仕方なく他人の顔  言葉も交わさずに  ただ  あのお方の眼差しが  熱射線のように 私の全てに  注ぎかけられる 私は 熱く 燃える   華  

「万葉集の歴代歌人」

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  「人麻呂の歌は、 羈 旅と挽歌をその内容とするものが多い。人麻呂の悲調は、挽歌はもちろん、 羈 旅の歌においても鎮魂のふかい声をなしていることから来ており、そこに人麻呂の古代性を読み取ることは容易であろう。この伝記不明の宮廷歌人は、また巡遊歌人の面影をも合わせ持ち、彼において、芸術は呪術の伝統と固く結びついていたことが思われるのである。」    上田三四二 「私の古典鑑賞」 柿本人麻呂 = 呪言の続きのような         重々しい歌 高市黒人  = 繊細な詩心による         風景の客観化 山辺赤人  = 自然鑑賞による         叙景歌 山上憶良  = 知識人として         社会を見る目の新しさ 万葉棹尾の歌人 大伴家持  = ほとんど近代の憂愁         に通うような細みの抒情 高松塚古墳 壁画

「傍目の美しさ」

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 「躾とは身を美しくあれと書く、服飾のことではない。また型通りの礼儀作法でもない。要は、傍目を大切にせよ、との教えである。立居振舞いが恭謙で、言う事為す事がつつしみ深く、思いやりがあって傍に迷惑を及ぼさなければいい。人が、傍目の美しさを心掛ければ、人の世は美しくなる。理非の問題ではない。」      「平家」池宮彰一郎 ( 日経新聞 )  いい文章ですね。この文を読むと、傍目の美しさとは見た目の美しさではなくて、「心の持ち方の美しさ」なんだということが判ります。僕の好きな白洲正子は「理解することは簡単なことである。大切なことは判ると言うことではなく、それが身についているかどうかと言うことである」と言っていて、最近この言葉を心の中で反芻しています。  「判っているけど、実際にはできないこと、もしくは身についていないこと」は、自分を省みても山ほどあります。 大徳寺 龍源院 一枝担