「花は華となる」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 21, 2021 「花は華となる 一秒間のまなざし 広嶋 美恵子 」 やっとお逢い出来た あのお方 でも 今は 仕方なく他人の顔 言葉も交わさずに ただ あのお方の眼差しが 熱射線のように 私の全てに 注ぎかけられる 私は 熱く 燃える 華 続きを読む
「万葉集の歴代歌人」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 21, 2021 「人麻呂の歌は、 羈 旅と挽歌をその内容とするものが多い。人麻呂の悲調は、挽歌はもちろん、 羈 旅の歌においても鎮魂のふかい声をなしていることから来ており、そこに人麻呂の古代性を読み取ることは容易であろう。この伝記不明の宮廷歌人は、また巡遊歌人の面影をも合わせ持ち、彼において、芸術は呪術の伝統と固く結びついていたことが思われるのである。」 上田三四二 「私の古典鑑賞」 柿本人麻呂 = 呪言の続きのような 重々しい歌 高市黒人 = 繊細な詩心による 風景の客観化 山辺赤人 = 自然鑑賞による 叙景歌 山上憶良 = 知識人として 社会を見る目の新しさ 万葉棹尾の歌人 大伴家持 = ほとんど近代の憂愁 に通うような細みの抒情 高松塚古墳 壁画 続きを読む
「傍目の美しさ」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 21, 2021 「躾とは身を美しくあれと書く、服飾のことではない。また型通りの礼儀作法でもない。要は、傍目を大切にせよ、との教えである。立居振舞いが恭謙で、言う事為す事がつつしみ深く、思いやりがあって傍に迷惑を及ぼさなければいい。人が、傍目の美しさを心掛ければ、人の世は美しくなる。理非の問題ではない。」 「平家」池宮彰一郎 ( 日経新聞 ) いい文章ですね。この文を読むと、傍目の美しさとは見た目の美しさではなくて、「心の持ち方の美しさ」なんだということが判ります。僕の好きな白洲正子は「理解することは簡単なことである。大切なことは判ると言うことではなく、それが身についているかどうかと言うことである」と言っていて、最近この言葉を心の中で反芻しています。 「判っているけど、実際にはできないこと、もしくは身についていないこと」は、自分を省みても山ほどあります。 大徳寺 龍源院 一枝担 続きを読む
「たましいとして」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 20, 2021 「私たちの思う芭蕉や利休や西行は、個人と言うよりももっとはっきりした、もっと大きな存在、ひとつのかたまりと化しています。それは、かって生きていたそれらの人々を、人間としてよりも、たましいとして見ているからです。」 白州正子 「たしなみについて」 ( 1948 年) 白州正子は、この三人の生き方の中では、 特に西行の生き方に、 深い感銘を受けている。 この三人にもそれぞれの人生があり、 そして個性があった。 しかしこうした偉大な存在は、 その死とともに、 一つのたましいになってしまう。 その生き方が、 そして人生で求めたものが、 三者三様でありながら、 非常に近いものになっている。 それは、 西行においては「歌は真言」であり、 利休においては「和敬静寂」であり、 芭蕉においては「不易流行」であった。 そして彼らの生き方が、 一つの塊となって、 たましいと化したのである。 世俗を超えて、 真に変わらぬ 人間にとって 大切なもの 美しいもの のみを 三者ともに、生涯かけて 追い求めたのである。 秩父 清雲寺 続きを読む
「祇園月夜」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 20, 2021 「あでやかに 君がつかへる 扇より 祇園月夜と なりにけらしな 吉井 勇 」 鴨川踊りを見た後 先斗町の 狭い路地を 二人は歩いた 歩きながら 貴女は 小さな 茶席用の 可愛い扇を 舞妓の使ったように くるりと 閃かせた 四条橋の たもとから 河原に降りた 祇園さんの 八坂神社のあるほうの 東山に 十六夜の月が 懸かっていた 祇園 新橋 続きを読む
「春ごとに 花のさかりは」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 20, 2021 「春ごとに 花のさかりは ありなめど あひ見むことは いのちなりけり 詠人不知(古今集) 」 くり返し くり返し 春の訪れるたびに 桜の花は 命とばかりに 美しい花を咲かせる あおによしの寧良(なら) と詠われた天平の御代も 平安から鎌倉にかけての 動乱の中に咲いた新古今の御代も そうして我らの生きる今も また今から一千年後にも この地上が生きとし生けるものを育み 夜空の群青色の王冠たる星空を戴くかぎり 桜はその命たる華麗な花を 咲かせつづけるだろう われらモータル(死すべき)な 存在にとっては この永遠に常永久(とことわ)に 咲きつづける桜花を 愛(め)でることが 自らの命を よりよく感じるときなのだ 桜花という自然の命と 己が命を ひとつに 重ねつつ 京都 原谷苑 続きを読む
「この世をば」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 20, 2021 この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 藤原 道長 藤原不比等の子・房前に始まる北家藤原氏の全盛時代は、何と言っても藤原道長の時代であった。 道長はその娘四人を天皇に嫁がせて、外祖父という絆の強い婚姻関係でその権力を集中させ、強大なものとしていった。 即位順で見れば、まず円融天皇の皇子・一条天皇には長保元年(九九九年)その二十歳の折りに、十二歳の自らの長女彰子(あきこ)を女御として嫁がせている。 しかし一条天皇には道長の兄道隆の長女である中宮定子(さだこ)がすでに正暦元年(九九〇年)に嫁いでいた。 十一歳で元服した一条天皇に、添臥の女御として十五歳の定子が入内していたのである。 そして翌年には「中宮定子を皇后、女御彰子を中宮とする」という勅が出されている。 しかし道隆が病死した後、その子伊周(これちか)は道長との政争に破れ、定子は出家していた。 にもかかわらず一条天皇は尼となった定子を手離さず、定子は彰子入内のその年に、敦康(あつやす)親王を出産している。 そして定子はすぐに再び妊娠し、翌年産褥死してしまう。 この定子に仕えていたのが、清少納言であり、彰子に仕えていたのが、紫式部や和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などである。 そして紫式部が「源氏物語」を書いた時期は、彰子が入内してからやっと十年後に皇子(後の後一条天皇)を産んだ、長徳元年(九九五年)から寛弘元年(一〇〇四年)の十年間であるという。 吉野山 一目千本桜 続きを読む