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「たましいとして」

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  「私たちの思う芭蕉や利休や西行は、個人と言うよりももっとはっきりした、もっと大きな存在、ひとつのかたまりと化しています。それは、かって生きていたそれらの人々を、人間としてよりも、たましいとして見ているからです。」  白州正子 「たしなみについて」          ( 1948 年) 白州正子は、この三人の生き方の中では、 特に西行の生き方に、 深い感銘を受けている。 この三人にもそれぞれの人生があり、 そして個性があった。 しかしこうした偉大な存在は、 その死とともに、 一つのたましいになってしまう。 その生き方が、 そして人生で求めたものが、 三者三様でありながら、 非常に近いものになっている。 それは、 西行においては「歌は真言」であり、 利休においては「和敬静寂」であり、 芭蕉においては「不易流行」であった。 そして彼らの生き方が、 一つの塊となって、 たましいと化したのである。 世俗を超えて、 真に変わらぬ 人間にとって  大切なもの 美しいもの  のみを 三者ともに、生涯かけて 追い求めたのである。 秩父 清雲寺

「祇園月夜」

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  「あでやかに 君がつかへる 扇より   祇園月夜と なりにけらしな            吉井 勇 」 鴨川踊りを見た後 先斗町の 狭い路地を  二人は歩いた 歩きながら 貴女は 小さな 茶席用の  可愛い扇を 舞妓の使ったように  くるりと 閃かせた 四条橋の たもとから  河原に降りた 祇園さんの  八坂神社のあるほうの 東山に  十六夜の月が  懸かっていた 祇園 新橋

「春ごとに 花のさかりは」

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  「春ごとに 花のさかりは ありなめど  あひ見むことは いのちなりけり       詠人不知(古今集) 」   くり返し くり返し    春の訪れるたびに 桜の花は    命とばかりに 美しい花を咲かせる   あおによしの寧良(なら)   と詠われた天平の御代も    平安から鎌倉にかけての   動乱の中に咲いた新古今の御代も   そうして我らの生きる今も   また今から一千年後にも   この地上が生きとし生けるものを育み   夜空の群青色の王冠たる星空を戴くかぎり   桜はその命たる華麗な花を   咲かせつづけるだろう   われらモータル(死すべき)な   存在にとっては   この永遠に常永久(とことわ)に   咲きつづける桜花を   愛(め)でることが   自らの命を よりよく感じるときなのだ   桜花という自然の命と   己が命を    ひとつに 重ねつつ 京都 原谷苑

「この世をば」

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  この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば                   藤原 道長 藤原不比等の子・房前に始まる北家藤原氏の全盛時代は、何と言っても藤原道長の時代であった。  道長はその娘四人を天皇に嫁がせて、外祖父という絆の強い婚姻関係でその権力を集中させ、強大なものとしていった。  即位順で見れば、まず円融天皇の皇子・一条天皇には長保元年(九九九年)その二十歳の折りに、十二歳の自らの長女彰子(あきこ)を女御として嫁がせている。  しかし一条天皇には道長の兄道隆の長女である中宮定子(さだこ)がすでに正暦元年(九九〇年)に嫁いでいた。  十一歳で元服した一条天皇に、添臥の女御として十五歳の定子が入内していたのである。  そして翌年には「中宮定子を皇后、女御彰子を中宮とする」という勅が出されている。  しかし道隆が病死した後、その子伊周(これちか)は道長との政争に破れ、定子は出家していた。  にもかかわらず一条天皇は尼となった定子を手離さず、定子は彰子入内のその年に、敦康(あつやす)親王を出産している。  そして定子はすぐに再び妊娠し、翌年産褥死してしまう。  この定子に仕えていたのが、清少納言であり、彰子に仕えていたのが、紫式部や和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔などである。      そして紫式部が「源氏物語」を書いた時期は、彰子が入内してからやっと十年後に皇子(後の後一条天皇)を産んだ、長徳元年(九九五年)から寛弘元年(一〇〇四年)の十年間であるという。 吉野山 一目千本桜

「立原道造の月」

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  「美しいものになら ほほえむがよい  涙よ いつまでも かわかずにあれ  陽は 大きな景色の あちらに沈みゆき  あのものがなしい 月が燃え立った …  」        立原道造 「溢れひたす闇に」 日本人のような それでいて西洋人のような 立原道造 彼の詩は  古今集とリルケのあわいの中にある と芳賀徹は「詩歌の森へ」の中で 言っています か弱く 美しく 甘く 物悲しい 月

「文章の気合」

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  「美」ということについて、これほど直截に、さわやかに語った人が他にあるだろうか。白洲さんの文章は、練達の剣士の剣舞を見ているような味があった。風に揺れる花のようだが、近寄ると切られるという気合がこもっていた。日本のすべての人に読んでいただきたい書物である。                        河合隼雄 白洲正子の文章には、独特の切れ味がある。 白洲正子にインタビューを受けるのを怖がったまやかしものの人間にとっては、その文章で本質を突かれれば、満身創痍にならざるを得ない、そういった切れ味である。 それが我々第三者には、極めて小気味がよいものとして感じられる。 そこには本質を抉り出そうとする気合が篭っている。 作文そのものが、いってみれば薩摩示現流の真剣勝負なのである。 武相荘の書斎

「星となる夜」

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ああ こんな夜に 清い月の光で わたしは粉々に砕かれる 心には少しの悩みもなく 淡々とした気持ちで わたしは無限の彼方へ引きづり込まれる 思考の許されない彼方で わたしは小さな花火の如く 夜空に閃きちりばめられる 永遠に星となって アンドロメダ座