「たましいとして」
「私たちの思う芭蕉や利休や西行は、個人と言うよりももっとはっきりした、もっと大きな存在、ひとつのかたまりと化しています。それは、かって生きていたそれらの人々を、人間としてよりも、たましいとして見ているからです。」 白州正子 「たしなみについて」 ( 1948 年) 白州正子は、この三人の生き方の中では、 特に西行の生き方に、 深い感銘を受けている。 この三人にもそれぞれの人生があり、 そして個性があった。 しかしこうした偉大な存在は、 その死とともに、 一つのたましいになってしまう。 その生き方が、 そして人生で求めたものが、 三者三様でありながら、 非常に近いものになっている。 それは、 西行においては「歌は真言」であり、 利休においては「和敬静寂」であり、 芭蕉においては「不易流行」であった。 そして彼らの生き方が、 一つの塊となって、 たましいと化したのである。 世俗を超えて、 真に変わらぬ 人間にとって 大切なもの 美しいもの のみを 三者ともに、生涯かけて 追い求めたのである。 秩父 清雲寺