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『旅愁』

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  「マルセーユ  つれしゃるまん ( Très Charmant )  覚えけり」         横光利一  『旅愁』 高校生時代の読書としては、そんなに多くの本を読んだ記憶はないが、なぜか新感覚派の横光利一の『旅愁』に感動したことがある。 歴史と文化を勉強に行った矢代のパリやスイスでの千鶴子への慕情、伊勢神宮への郷愁など、ヨーロッパへの憧れを覚えたものであった。その後横光利一に関しては、『機械』などを読みかけたがあまり興味がわかず、同じ新感覚派である川端康成の本を読み始めた。 マルセーユ

「Serenity Player」

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  “Oh God, give us serenity to accept what can’t be changed, give us courage to change what to be changed and give us wisdom to distinguish the one from the other.”  「神よ、変えることができないものを受け止める冷静さと、変えるべきものを変える勇気と、その前者と後者を見分ける智慧をお与えください」          ラインホルド・ニーバー 取引先の社長から教示された片言隻句に「ニーバーの祈り」というものがあり、この言葉には随分と助けられた。苦しい時に逃げようとする弱さをどうにか抑えて、難問と立ち向かえる勇気を与えてくれたのは、この言葉のお蔭である。「 Serenity Player 」と言われるこの言葉は、米国のバルト神学者ラインホルド・ニーバーの残したものと言われる。英語では様々な表現で表されているが、私の最初に習ったものを上記に表示した。  

「あしひきの」

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 「あしひきの 山桜花 日並(ひなら)べて       かく咲きたらば いと恋ひめやも」    足比奇乃 山櫻花 日並而       如是開有者 甚戀目夜裳             山辺 赤人 山桜は染井吉野と比べると、花の散るのは少し遅いと思われますが、それでも万葉時代の人も、桜の花の咲く期間が短いが故に、桜花を愛惜したようです。 「日並べて」とは何日の続けてという意味のようです。 「いと恋ひめやも」は、こんなの恋しく思ったでしょうか、いいやそうではないでしょう、という意味の反語ですね。 龍安寺 鏡容池

「かのことは」

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 「かのことは夢幻(ゆめまぼろし)か秋の蝶              鈴木 真砂女 」      秋の蝶が ふうわりと 庭先を       夕陽の方へと 飛んでゆく      あの人と 一緒に 蝶を見たのは      嵐山の 大河内山荘      紅色の毛氈で 薄茶を 喫していた       そのとき      蝶が 一片(ひとひら)      夕暮れ迫る 京洛の町並みのほうへと      風に 吹かれるように 浮遊していった      ああ あの人と わたしのことは      あれほどの 熱い想いで      あったのに      あのときの ふたりは      いま いずこ      夢 幻 よりも はかなく      わたしの 秋の季節も      この 秋の蝶のように      ふうわりと そして ゆっくりと       暮れて ゆくのだろう 大河内山荘 四阿

「いざ雪見」

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 「いざ雪見 容(かたちづくり)す 蓑と笠                 蕪村 」     晋の予譲を国士として遇した智伯が     襄子に滅ぼされた     その讐(あだ)を報ずる決意の吐露    「士ハ己ヲ知ル者ノ為ニ死ス     女ハ己ヲ説(よろこ)ブ者ノ為ニ       容(かたちづくり)ス」                 『史 記』       いざ行かん 雪見にころぶ ところまで                   芭蕉

「マカル サリ 美しい花が 咲いてる」

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 「マカル・サリ  MAKAR SARI     楽園は 心の中にある」 MAKAR 咲く  SARI 花  インドネシア語 楽園は そう 心の中にある 心の「平安  PEACE 」 「静謐  TRANQUILITY 」 そして自然の「美しさ  BEAUTY] 楽園にあるのは 物質的なもしくは 肉体的な快楽ではなく 精神的な平安と静謐 そうしてそれは  他律的なもの(外部からのもの)ではなく 自律的なもの(内部からのもの) そうして  そこには 美しい花が  咲いている アッシジのサン・フランシスコの 感じたような自然の中にある喜び 高山寺の明恵上人が会得したような 月や宇宙そのものと 合一する悟り アッシジ

「はかなさを   待賢門院堀河」

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      「はかなさをわが身のうへによそふれば        たもとにかかる秋の夕露              待賢門院堀河  」              この 御室の里にも        周山街道を伝って            秋がしめやかに 降りてくる         寂しさも 一入(ひとしお)の     その夕べに    花園の 五位山よりの 使い        待賢門院さまが お隠れに       花の 匂うが如く お美しい    璋子中宮さま    宮居や 鳥羽離宮での     華やかな 宴の かずかず         そのお姿が 庭もとの       萩に落ちた 夕露のごとく       はかなくなって しまわれたとは       夫も亡く 我が子も手放し       待賢門院さまのみが     よすがであったのに    夕露も わたくしの     涙のように     葉の先から     ひとしずく              落ちてゆく            そして この袂も     しとどに 濡れて      < 御室の里 = 仁和寺       花園の五位山 = 法金剛院 >   -------   「 申上げたことはありません     袂にかかる露の冷さなどは     秋草模様の小袖にはいつも     涙の玉の散りかかるばかり     はかない思ひはきのふから     明日に続いてまた繰り返す     ほろびの日を懼れるなどと     あなたには申上げますまい 」        塚本邦雄 「王朝百首」  276 頁    * 注)畏れ多くも、塚本邦雄作品と、        愚作を並べてしまいました。 嵯峨野 宝筐院