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「三尾(さんび)の紅葉」

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 周山街道から登って、三尾さんび(高雄・槇尾・栂尾)の紅葉を見たことがある。その年は冷え込みが厳しかったせいか、例年になく京都も見事な紅葉となっているようで、三尾の紅葉はまさに今が盛りであると思われるほど綺麗であった。 栂尾・高山寺の石水院(国宝)で、「明恵上人樹上座禅像(成仁作)」と黒板に水墨で書かれた「阿留辺幾夜宇和」を見て、後鳥羽院から賜った学問所(石水院)における明恵上人に、少し触れてくることができた。境内の遺香庵の紅色の紅葉が、実に鮮やかであった。 栂尾・高山寺境内の遺香庵の紅葉

「あかあかや月」

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「あかあかやあかあかあかやあかあかや      あかあかあかやあかあかや月             明恵上人 」      中空に かかる 金色の月      この 栂尾(とがのお)の       石水院(せきすいいん)の 縁側に      ひとり 座禅して      月の光に このからだと       こころを 曝す      ああ 天上天下      あるのは       ただ 月と 吾(われ)      そうして 月も 吾も      阿留辺畿夜宇和(あるべきやうわ)      吾の魂は浮遊して   金色の月となり        月もまた吾に入り込み  吾そのものとなる      すべては      あかるく あかるく あかるく      そして ひとつに         明恵上人樹上の図

「川端康成の小説と源氏物語」

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 三島由紀夫は川端文学を評して、「抒情のロマネスク」であると記している。そこでは美徳も悪徳もついには悲しみに紛れ入ってしまう文学であると、三島由紀夫は言っている。 そうした川端文学の中の「美しさと哀しみと」に関して、山折哲雄はこの小説を書いているとき川端は、「源氏物語」を念頭に置いていたのではないかという。 「美しさと哀しみと」のあらすじは、以下のとおりである。 作家の大木年雄は妻子ある身で、十六歳の少女・上野音子と交わり、やがて身ごもった音子は流産する。音子は母親に大木との仲を引き裂かれ、京都でその後画家となっている。 時が流れ、大木はある年の暮れに、音子と京都で再会し除夜の鐘を聞く。その折に大木を京都駅で迎えたのが、音子の内弟子・坂見けい子であった。そしてけい子と音子は、レスビアンの関係であった。 音子を慕っているけい子は、音子がまだ大木を思い続けていることを知って、強い衝撃を受け、嫉妬のほむらを燃え立たせる。けい子は大木に復讐する為に、大木の息子の太一郎を誘い出す。 音子はそれを制止しようとするが、けい子は今度は大木とホテルに泊まる。大木はけい子と一緒になろうとしたときに、けい子が音子の名を呼ぶのを聞き、一つになるのを止める。 終幕はけい子が太一郎を琵琶湖のホテルに誘い出し、モーターボートに二人で乗る。事故が起こって、太一郎は死に、けい子だけが助けられる。 山折哲雄は六条御息所の「もののけ」が葵の上にとり憑いたように、音子の嫉妬心がけい子にとり憑き、その「もののけ」が大木を脅かして、ついに息子の太一郎の命を奪ってしまうという。 「源氏物語」の「もののあわれ」は、「もののけ」の闇の領域と背中合わせであると、山折は記す。それはまた、万葉集の「相聞歌」と「挽歌」の関係の中にも探り出せるという。 切実な愛の歌は、最も親しい者の死の場面において極まるであろう。そして死者との惜別こそが、取り返しのつかぬ恋情を紡ぎ出すからだと山折は言う。 「相聞歌」と「挽歌」の関係は、「もののあわれ」と「もののけ」の相関にそのまま当てはまるわけである。その愛の明暗は、愛の無常である。 相聞の調べが挽歌を包み込んで、「もののあわれ」が「もののけ」の気配を飲み込むとき、愛の歌は無常の旋律を奏でる他はないであろうと、山折は書いている。 ...

「 雨 過 天 晴 」

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 「 雨 過 天 晴 」  -雨が過ぎた直後の、   空の青さのような   青磁の色-  清冽な言葉で、響きも晴朗としています。  この言葉は、陶磁器の美しさを表現する際に  使われるようです。 「 秘 色 (ひそく)」  この青磁のうち、  天子(中国の皇帝)に供する器にのみ、  使われるといいます。  シェークスピアは「マクベス」で、  「どんな荒れ狂う嵐の日も、   時は経つのだ」と書いています。  「 雨 過 天 晴 」の言葉も、  同じように読むことができるのでは  ありますまいか。   八稜浄水秘色青磁瓶(法門寺地宮出土)

「心に火を灯す」

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  「私が言いたいことは、誰でも「心に灯をともす」ことを強く意識して生きるべきだということである。「心に灯をともして」生きる人と、何ら燃えるものもなく、ただ毎日を無為に過ごす人の間には、何かを創造しようと努力する人間とそうでない人間の差がある。この差は想像以上に大きい。」 これは中谷 巌氏の文章です。 「心に火を灯す」と言う言葉自体、昔の「道徳」の時間の言葉のようで、ある意味で忘れられているような言葉です。 しかし、こうして中谷 巌氏の文章を読んでいると、こうした言い旧されてはいるがいつまでも心に残る言葉こそを、今我々は胸に刻まなければという思いがします。 オランダ キューケンホフ

「夢の上にかかる銀河」

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  「お米は茶器を引いて台所へ出た。  夫婦はそれぎり話を切り上げて、  また床を延べて寝た。  夢の上に高い銀河(あまのがわ)が  涼しく懸かった。」        夏目漱石 「門」 東京の市井の一隅、崖下の借家で、 過去の不倫の罪におびえながらも、 身と心を寄せ合って今の小さな幸福を守る 宗助・お米夫婦の姿     芳賀 徹  「詩歌の森へ」 「別るるや 夢一筋の 天の川             夏目漱石 」    かっての東京の市井の一隅には    かように夜の夢の上に    高く銀河(あまのがわ)が    懸かるごとき    美しい夜もあったのである    いまやその夢は    いずくへ

「埋れ木」

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「埋木となりはてぬれど山桜   惜しむ心はくちずもあるかな」       藤原 俊成 「埋れ木の花さく事もなかりしに   身のなる果ぞ悲しかりける」        源三位 頼政             「世の中をよそに見つつもうもれ木の   埋もれておらむ 心なき身は」       井伊 直弼   井伊直弼の彦根「埋れ木舎(うもれぎのや)」   埋もれ木の舎