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「現世浄土」

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  「源氏物語で仏教思想はもちろんあるが、その根本思想は現世浄土ではないか。それは平安王朝の精神であった」        三島由紀夫 道長は権力とお金で、浄土を現世に持ってこようとした。 理想社会と美の極地を、現世のものとしようとした。 紫式部が権力ではなく言葉で編み出そうとした現世浄土の最高の境地が、「胡蝶」の巻あたりではないか。 三島由紀夫は、このように源氏物語を解釈していた。 道長は今の岡崎あたりに京極御堂と呼ばれる法成寺を建造、この世の浄土を創りあげた。 またその息子頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立している。 まさに浄土思想全盛の時代であった。 宇治 平等院 鳳凰堂

「君の眼に映ずるものが」

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  京都の大徳寺の 塔頭(たっちゅう)に、 大仙院という お庭で有名なお寺があります。 そこの玄関には、 こんな言葉が書いてありました。 「今日を一生懸命生きずして、 いつを生きるのか」 アンドレ・ジイドは 次のような言葉を残しています。 「君の眼に映ずるものが、 刻々と新たならんことを」 二つともに、僕の好きな言葉です。 大徳寺 大仙院 書院前庭

「平家物語 - 重衡と千手の前」

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 平重衡は南都襲撃により、東大寺の大五重塔や大仏殿、また興福寺の伽藍を焼き払った不埒な猛将というイメージしかなかった。 ところが実際は、清盛と仁位の尼時子の五男として、明るくユーモアもあり、気の利いた貴公子であったらしい。 「平家花揃」では、牡丹の花に例えられる豪華で美しい男と表現されている。 その重衡が捕らえられ、鎌倉に送られれて、そこで出遭った千手の前の情愛の篭った慰め。  「一樹の蔭、一河の流れも他生の縁」  と千手が詠えば、  興に乗った重衡も琵琶を弾じる。  千手が琴を合わせると  峯の松風も調べを添えるようであった。 重衡が南都の僧兵により、惨殺されたその時を同じうして、千手の前も自害し果てたという。 または、善光寺で重衡の菩提を弔ったとも。 いずれにしても、かくも美しい恋物語を作り上げているのは、源平合戦においては義経を除いては全て平家の貴公子達なのである。 そこには最初に天下を取ったにもかかわらず全て王朝貴族化してしまった平家と、あくまで鎌倉の地にとどまって、一所懸命の武士を貫いた源氏の大きな差が出ている。 東大寺 大仏殿

「君に恋ひ」

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  「君に恋ひ 甚(いた)もすべなみ 奈良山の  小松が下に 立ち嘆くかも               笠 郎女 」    お慕いする 貴方さまは    いまだ 越中の国府におられます    はるかな路を     貴方さまにお逢いするため    往来いたしましてより 早幾年    貴方さまを偲ぶよすがとして    わたくしにできるのは    奈良山より 貴方さまのご自宅のある    佐保の里を 遠望するのみ    小松が下に佇んで    ただただ 露に心を濡らすことのみ 明日香の里

「石庭の作者」

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  「作庭は最初は荒び (すさび) であった、と私は考えている。慰み、遊び、と解釈してもらってもよい。古い作庭書を読むと荒びを感じさせる個所がかなりある。この荒びを美意識として昇華させ表象させたのが禅寺の庭である。」         立原正秋 『日本の庭』 京都の龍安寺の石庭の作者については、諸説があるようである。 開山の義玄天承、寺を建立した細川勝元、絵師であり義政の同胞衆であった相阿彌、勝元の実子細川政元、西芳寺の住職子建西堂、それに茶人の金森宗和などである。 但し、この庭の左から二つ目の石組みの裏側に、「小太郎、彦二郎」という名が刻まれている。 この庭師は 1490 年頃に存在したことが記録として残っており、そこから類推すれば時代的には細川政元が庭を着想し、小太郎・彦二郎に造築させたという説が成り立つようである。 政元は奇行の多い人間で、かつ倹約家でもあったという。 応仁の乱後の財政逼迫の下で、石と砂のみの庭を考えたこともあり得ることではある。 高さ一・八メートルの油土塀は屋根が異様に大きく、右手奥の西側の壁が南へ行くに従って徐々に低くなる、遠近法を用いている。 油土塀は土を大釜でよく煮て、その土に塩の苦汁(ニガリ)を混ぜて叩いた、非常に堅固な壁である。 大きな柿葺きの屋根と土塀の灰色と肌色の混じった色調、それに白砂と石がまた灰色と肌色の混色であり、それらが全て照応して背景の木々の緑と見事な色調の調和した景観を造り上げている。 灰色は寂しさを、肌色は暖かさを表し、それが土塀の灰色の抽象的とも言える模様と相まって、幽玄さを醸し出している。 方丈裏に水戸光圀寄進の、「吾唯知足」の龍安寺形手水鉢の複製がある。 知足は老子の言葉であるという。 龍安寺 石庭  

「紫式部新孝」

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  めぐりあひて見しやそれともわかぬまに   雲隠れにし 夜半 ( よは ) の月か げ 紫式部 (新古 1499 )   「更に驚かれることは彼女の思想の超凡なること、直覚の鋭くて正しいこと、同情の遍(あまね)くして繊細に且つ深きこと、僻(ひが)んだり意地悪く考えたりすることのないこと、恋愛を幾様にも書き分けて、いずれにも人情の真実を描き、無稽と空疎との跡のないこと、人間性の内部に徹して観察しながら、其れを客観的に肉付けて描写する筆力の精確なること、想像力も旺盛であったが記憶力も勝れて居たことなど、一々に云えば際限がない」(「紫式部新孝」 与謝野晶子) 「昌子は式部を賛美する点で、安藤為章の「紫家七論」(元禄十六年・ 1703 年)さえまだ云い足りないといっている。音楽論、絵画論、歌論に見識あり、漢字仏典、有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、美術、工芸、四季の風景について、高雅なる趣味と見識を備えていた式部であるが、そういう教養をいかにして得たかということにつき、晶子は式部の天才をまず挙げ、更に父や兄、伯父といった学者芸術家からの「美しい感化」があったろうといっている」(「源氏紙風船」田辺聖子) 清水好子は、「紫式部」という好著の中で少女時代の女友達との交流を述べ、「同時代の女流には類を見ないもの」で、女友達と交わした歌の為に「式部は女学生のように爽やかで、時には少年ぽく見える」と記している。 学者の家に生まれ、母なし子として育ち、兄と共に漢籍の素養を学んだ少女時代、また同時代の女友達との歌による交流、父親の失業、青春時代の胸に刻まれた悲恋、そうして男らしく教養もあり、男女の道に長けていた宣孝との結婚と、女としての悦びを深く植え付けられた短い結婚生活、娘賢子の誕生、それから道長の誘いによる中宮彰子への宮仕え、道長との媾合。 それらの紫式部に起こった出来事一つ一つの中から、式部は様々な知識、情報等の滋養を吸収し、それらを文学的もしくは美学的に咀嚼して自分のものと為し、それを「源氏物語」という世界に誇り得る日本文学として、編み出し紡ぎ出していったのであろう。 紫式部

「紫のひともとゆゑに」

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  「紫の ひともとゆゑに むさし野の  草はみながら あはれとぞみる」          伊勢物語 41段 この広い 武蔵野の 小川の傍で 出遭ったお前 紫の瞳が 朝の日を浴びて 私を見て 輝いていた そうして その夜 私は お前の その紫の瞳が 闇の中で 煌くのを 初めて見た   今も こうして草を食めば お前の 紫の瞳への   いとおしさが 甦ってくる 紫草