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「シャイニング・プリンス」

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 「物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の    袖うちふりし心知りきや」        光源氏        藤壺の宮への和歌   光源氏は英文では Shining Prince というそうである。 Translated by Ivan Morris.   「光るの君」と呼ぶときと   「 SHINING PRINCE 」の響きの違い。   「光る」には、ただ単に光り輝く以上の  崇高な神的なニュアンスもあるが、   「 SHINING 」となると   ただ光り輝いているというイメージ    になってしまうのは、    こちらの語学力の問題なのであろうか。 源氏物語 柏木

「忘るなよ」

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  「忘るなよ 藪の中なる 梅の花              芭蕉 」    忘れ去られたかのように    藪の中で ひっそりと咲く    白梅の 密やかさ    目立たない その梅の花の    爽やかさと 薫香のごとき香り    ひとり静かに 矜持心を持って

「現世浄土」

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  「源氏物語で仏教思想はもちろんあるが、その根本思想は現世浄土ではないか。それは平安王朝の精神であった」        三島由紀夫 道長は権力とお金で、浄土を現世に持ってこようとした。 理想社会と美の極地を、現世のものとしようとした。 紫式部が権力ではなく言葉で編み出そうとした現世浄土の最高の境地が、「胡蝶」の巻あたりではないか。 三島由紀夫は、このように源氏物語を解釈していた。 道長は今の岡崎あたりに京極御堂と呼ばれる法成寺を建造、この世の浄土を創りあげた。 またその息子頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立している。 まさに浄土思想全盛の時代であった。 宇治 平等院 鳳凰堂

「君の眼に映ずるものが」

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  京都の大徳寺の 塔頭(たっちゅう)に、 大仙院という お庭で有名なお寺があります。 そこの玄関には、 こんな言葉が書いてありました。 「今日を一生懸命生きずして、 いつを生きるのか」 アンドレ・ジイドは 次のような言葉を残しています。 「君の眼に映ずるものが、 刻々と新たならんことを」 二つともに、僕の好きな言葉です。 大徳寺 大仙院 書院前庭

「平家物語 - 重衡と千手の前」

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 平重衡は南都襲撃により、東大寺の大五重塔や大仏殿、また興福寺の伽藍を焼き払った不埒な猛将というイメージしかなかった。 ところが実際は、清盛と仁位の尼時子の五男として、明るくユーモアもあり、気の利いた貴公子であったらしい。 「平家花揃」では、牡丹の花に例えられる豪華で美しい男と表現されている。 その重衡が捕らえられ、鎌倉に送られれて、そこで出遭った千手の前の情愛の篭った慰め。  「一樹の蔭、一河の流れも他生の縁」  と千手が詠えば、  興に乗った重衡も琵琶を弾じる。  千手が琴を合わせると  峯の松風も調べを添えるようであった。 重衡が南都の僧兵により、惨殺されたその時を同じうして、千手の前も自害し果てたという。 または、善光寺で重衡の菩提を弔ったとも。 いずれにしても、かくも美しい恋物語を作り上げているのは、源平合戦においては義経を除いては全て平家の貴公子達なのである。 そこには最初に天下を取ったにもかかわらず全て王朝貴族化してしまった平家と、あくまで鎌倉の地にとどまって、一所懸命の武士を貫いた源氏の大きな差が出ている。 東大寺 大仏殿

「君に恋ひ」

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  「君に恋ひ 甚(いた)もすべなみ 奈良山の  小松が下に 立ち嘆くかも               笠 郎女 」    お慕いする 貴方さまは    いまだ 越中の国府におられます    はるかな路を     貴方さまにお逢いするため    往来いたしましてより 早幾年    貴方さまを偲ぶよすがとして    わたくしにできるのは    奈良山より 貴方さまのご自宅のある    佐保の里を 遠望するのみ    小松が下に佇んで    ただただ 露に心を濡らすことのみ 明日香の里

「石庭の作者」

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  「作庭は最初は荒び (すさび) であった、と私は考えている。慰み、遊び、と解釈してもらってもよい。古い作庭書を読むと荒びを感じさせる個所がかなりある。この荒びを美意識として昇華させ表象させたのが禅寺の庭である。」         立原正秋 『日本の庭』 京都の龍安寺の石庭の作者については、諸説があるようである。 開山の義玄天承、寺を建立した細川勝元、絵師であり義政の同胞衆であった相阿彌、勝元の実子細川政元、西芳寺の住職子建西堂、それに茶人の金森宗和などである。 但し、この庭の左から二つ目の石組みの裏側に、「小太郎、彦二郎」という名が刻まれている。 この庭師は 1490 年頃に存在したことが記録として残っており、そこから類推すれば時代的には細川政元が庭を着想し、小太郎・彦二郎に造築させたという説が成り立つようである。 政元は奇行の多い人間で、かつ倹約家でもあったという。 応仁の乱後の財政逼迫の下で、石と砂のみの庭を考えたこともあり得ることではある。 高さ一・八メートルの油土塀は屋根が異様に大きく、右手奥の西側の壁が南へ行くに従って徐々に低くなる、遠近法を用いている。 油土塀は土を大釜でよく煮て、その土に塩の苦汁(ニガリ)を混ぜて叩いた、非常に堅固な壁である。 大きな柿葺きの屋根と土塀の灰色と肌色の混じった色調、それに白砂と石がまた灰色と肌色の混色であり、それらが全て照応して背景の木々の緑と見事な色調の調和した景観を造り上げている。 灰色は寂しさを、肌色は暖かさを表し、それが土塀の灰色の抽象的とも言える模様と相まって、幽玄さを醸し出している。 方丈裏に水戸光圀寄進の、「吾唯知足」の龍安寺形手水鉢の複製がある。 知足は老子の言葉であるという。 龍安寺 石庭