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<随所為主、立処皆真>

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・どんな人生でも良い時、悪い時はある ・大切なことは良い時は有頂天にならないように、  悪いときは悲観的になり過ぎないように ・「得意淡然、失意泰然」の心意気 ・「人生はすべて心の持ちよう」 嵐はずっと続かないし 晴れの日もずっとは続かない そして問題は時間が必ず解決するということ ・もう一つ「短期悲観、長期楽観」 ・気持ちの持ちようで  自分に起きた現象の捉え方はまったく変わる ・そして自分の人生の主人公は自分 ・だから自分の人生は自分で決める  人のせいにしない ・誰かに、自分の人生を変えられたなどとは  決して思わない ・自分で決められない部分はあるが  それは神に任せる ・「人事を尽くして、天命を待つ」 ・「随所に主となれば、立つ処皆真なり」  <随所為主、立処皆真> ・臨済宗の始祖・臨済義玄の言葉 臨済禅師の頂相(ちんそう)

「俳人・杉田久女」

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  明治23年(1890年)~昭和21年(1946年) 「花衣 ぬぐやまつわる 紐いろいろ」 「春の夜の まどゐの中に いて寂し」 「谺して やまほととぎす ほしいまま」 明治23年(1890年)~昭和21年(1946年) 鹿児島生れ 東京育ち 御茶ノ水高等女学校卒業後、 小倉中学の 美術教師・杉田宇内と結婚 ほととぎす同人となるも、 昭和11年虚子に除籍さる 橋本多佳子に俳句の手ほどきを行う 黛まどかは、久女の俳句を知って、 俳句の世界に入った

「木曽殿」

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  義仲の寝覚めの山か月悲し  芭蕉    木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふ  そして鎌倉勢の矢に倒れる  義仲のどこに魅かれるかといえば  誰しもが最後は一人だ  という感慨ではないか       葉室 麟 『京都再見』 大坂の御堂前で亡くなった芭蕉が 指定した墓所は膳所の義仲寺であった 膳所の義仲寺を訪ねたが 何故義仲寺なのかは 判然としなかった やはり葉室麟の言うように 誰しもが最期はひとりだ との思いからであろうか 「無量寿経」に 「独生独死独去独来」とある  

「分去れ」

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  かの時に我がとらざりし分去れの     片への道はいずこ行きけむ       美智子上皇后 (平成7年) 友人から教えて貰った美智子上皇后の名歌 分去れの碑. 中山道と北国街道の分岐点の道標は 今も残っている いづくより満ち来しものか紺青の       空埋め春の光のうしほ          美智子さま 昭和37年、二十歳の時の歌である 実に天性の歌人であられる 美智子上皇后を 天皇家に迎い入れたことは 日本の誇りである もっとその御歌の素晴らしさは 国民に広く知らされるべきである

「勿忘草」

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  ふるさとを忘れな草の咲く頃に             成嶋瓢雨 忘れ草わが紐に付く香具山の        古りにし里を忘れむがため                  大伴 旅人 勿忘草は春の季語であり            花言葉は 「私を忘れないで」「誠の愛」「真実の友情」 英語では Forget-me-not フランス語では  Ne m'oublie pas ドイツ語では  Vergiss mein nicht である 国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』ではないが 「忘れ得ぬことがら」の集大成が 我々の人生なのであろう  

「 令 」

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  「 初春令月 気淑風和 」       万葉集 巻五  初春の素晴らしい月  気は淑然として  風は和んでいる 大宰府の長官であった大伴旅人が 梅の宴会を催して その序文に書かれた言葉である 「令」は「靈」の当て字として用いられ 「神々しい」とか「素晴らしい」の 意味を有するらしい そのような時代を標榜していたのに 令和はコロナ禍に翻弄されている ポスト・コロナへの一筋の光を 早く持ちたいものだ 大宰府跡

「リベラル・アーツ」

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「この一高はリベラルアーツの学校である。リベラルアーツとは人類が残してきた芸術、文化、学問のことであり、ここはその偉大な遺産を次の世代に伝える   sacred place  ( 聖なる場所 ) だ。そこを占領などという vulger (世俗的)な目的のために使わせるわけにはいかない。」      学習院大学を折衝うに来たGHQの将校に対して、        当時の旧制第一高等学校の学長である安倍能成     (あべよししげ)が毅然として断った言葉。 *LIBERAL ARTS ギリシャ ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学、修辞学、論理学、数論、幾何、天文学、音楽のこと。