「西行の花月一如」

 西行の出家の動機に関しては、色々な説があるそうであるが大きく分ければ次の三つとなる。

1)純粋に仏教への帰依の心によるもの

藤原頼長の日記『台記』にも、「家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり」と記述されている。

2)「無常感」が出家の原因

保元の乱に見られるような世上の出来事をはかなみその「無常感」が出家の原因となったと説く説話も多く存在している。実際そのような無常感を詠んだ歌が『山家集』には何首か収められている。

3)高貴な女性との恋

璋子との恋がなぜ西行の発心の起こりとなったかであるが、「申すも恐れある」高貴な女性に「あこぎの浦ぞ」とたしなめられたからと言われている。「あこぎの浦ぞ」とは
  
伊勢の海あこぎが浦に引く網も 

    たびかさなれば人もこそ知れ

という古歌によっており、逢うことが重なればやがて人のうわさにものぼるであろう、とたしなめられたというわけである。璋子には他にもいくつかの浮名が伝わっている。恋多き女性であるとともに、西行が彼女の面影を曳きずり、多くの美しい恋歌を残しているところからも、魅力的な美しい女性であったことは想像に難くない。

西行の彼女を詠んだといわれる歌を二首。

知らざりき雲居のよそに見し月の 

     影を袂に宿すべしとは

おもかげの忘らるまじき別れかな 

     名残りを人の月にとどめて
   
西行の出家はこれらの三つの説のどれかというより、三つの絡み合ったものであろうと思われるのである。

西行の出家がなぜかくまで後世の学者の興味をひくのか。

それは一般の出家もしくは隠遁僧とは質的に異なる、彼の類稀なる生き方とその生き方から生まれた和歌の数々が、我々現代人の心を捉えて離さないからであろう。

世俗を離れながらも、和歌に関しては極めて世俗的な欲望も持ちつづけた西行。

厳しい修験業を体験しながらも、僧侶としての悟りの境地は求めず、あくまでも自然体に生きた西行。

花月一如の世界に、仏教を越えた宗教的な恍惚の空間を作り上げた西行。

技巧を凝らして虚構の美の世界を紡ぎ続けた定家を始めとする新古今和歌壇をよそ目に見て、平易な言葉で死生観をそして桜と月を歌い、人の心に沁み入ってくる西行。

そうした西行の和歌の世界の「美」と「拡がり」と「深み」に、魅了されて行くのであろう。

京都 清水寺 五重塔と夜桜


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