「長恨歌」

 

七月七日長生殿 夜半無人私語時  

七月七日、長生殿 誰もいない夜半に

二人は親しく語りあった

在天願作比翼鳥 在地願為連理枝  

天にありては願わくは比翼の鳥となり 

地にありては

願わくは連理の枝となりたい

天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期  

天地は長く久しいが

いつかは尽きる時がある

しかしこの悲しみは綿々として

決して絶えることはないでだろう

     白楽天 『長恨歌』より

 

七三五年に十六歳の楊玉環は、唐の第六代皇帝玄宗の皇太子寿王の妃となるが、七四〇年二一歳の時に五五歳の玄宗皇帝に見初められ、玄宗の寵妃となる。745年に貴妃として冊立さる。七五六年安史の乱で逃亡中に死を賜る。玄宗七〇歳、楊貴妃三七歳の時である。

 

それからおよそ五〇年後の八〇六年に、白楽天により「長恨歌」が書かれた。そしてそれは『白氏文集』の中の著名な詩として、一〇〇〇年頃に日本の平安時代でよく読まれ、清少納言や紫式部にも愛読されたようである。

 

安史の乱で本当に国を傾けたゆえ、楊貴妃は「傾城の美女」と言われ世界三大美人の一人とされる。残る二人はギリシャ神話のヘレネ―、とクレオパトラ七世であるが、日本の場合にはヘレネ―の代わりに小野小町が入る。

 

また古代中国四大美人は、西施王昭君貂蝉・楊貴妃である。貂蝉は架空の人物で、 三国志の最高の美女貂蝉(ちょうせん)王允の策略により董卓と呂布の仲違いをさせることに 成功させた美女という。

下記は華清池である。



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